歴史における気候変動と中世ヨーロッパを襲った大飢饉・疫病

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歴史における気候

過去の人々がどのような自然環境のもとで生活していたかは、歴史をひも解く上で重要なポイントだ。なかでも気候は最も重要な要素のひとつであり、人々の行動範囲や農作物の生産、さらには人口の増減に至るまで人間社会にさまざまな影響を及ぼしてきた。

過去の気候変動を調査し、その変化を長期的な文脈に位置付けて理解しようとする学問のことを歴史気候学という。すでに19世紀から研究が始まっているが、地球温暖化など人間と自然の関係があらためて問題となるなか、近年強い関心が寄せられるようになっている。

特に近年では従来の樹木年輪記録に加え、南極・北極や山岳地域の氷河といった雪氷試料から過去の気温のデータを取り出すことができるなど技術発展が目覚ましい。既に北半球の様々な地点において、西暦1400年までの年ごとの夏と冬の気温の変化が明らかになっている。

13世紀までの温暖な日々

歴史気候学の成果により、西暦900年から1200年にかけてヨーロッパは温暖期にあったことが分かっている。夏の平均気温は二十世紀の平均よりも0.7度から1.0度高く、イングランドの南部や中央部でもワイン用のブドウ栽培がおこなわれていたほどだった。

13世紀に入っても、ヨーロッパの大部分で温暖な気候が続いた。1257年に現在のインドネシアにあるリンジャニ山で発生した火山噴火による寒冷化など一部を除けば、厳冬や冷夏や記録的な嵐に見舞われることはまれだった。大半の年は豊作で、農業技術の発展にも支えられて食物の生産量はそれ以前の時代よりも飛躍的に増加していた。

食糧の増加は人口の増加を生み、各地で新しい耕地や村が作られ都市人口も急増した。また、温暖化ははるか遠方への冒険譚を生み出す土壌を提供した。スカンディナヴィア半島の人々がアイスランド、グリーンランド、さらにはヴィンランド(北アメリカ大陸)にまで進出できたのも、温暖な気候によって海を渡ることができたからだ。それらの地には、植民する際に必要な牧草や燃料となる柳が茂っていたのだ。

寒冷化と小氷河期の到来

しかしながら、1200年を過ぎると北部から気候の変化が見られるようになった。北極圏では寒さが一層厳しくなり、南下した流氷がグリーンランド一体と大西洋の最北部を覆うようになっていった。スカンディナヴィアの船は、1203年にはすでにアイスランドからの航海が難しくなっていた。まだこの時期ヨーロッパの大部分ではこのような変化の兆しは見られなかったが、既に極北の地では気候の変化による影響が出始めていた。

小氷河期と凍るテムズ川

13世紀後半からは、ブリテン諸島でも少しずつ寒冷化の影響が見られるようになり、ヨーロッパはその後、1300年頃から本格的に小氷河期と呼ばれる時期に入っていく。

この気候の変動は大気と海洋の複雑なかかわりあい――アゾレス諸島上空の強い気圧と、それと同じくらい強いアイスランド上空の気圧の間の気圧変動――によってもたらされる。前者の気圧の方が高くなると、大西洋の西側から吹く偏西風によって夏の大嵐がもたらされれる。後者の方が高くなると、北極やシベリアからの寒気が流れ込み、北ヨーロッパは冷夏・厳冬に見舞われる。これがおおよそ7年前後のスパンで唐突に変動するため、ヨーロッパの気候が絶えず不安定な状態にさらされることになるのだ。

既に1260、70、80年代には、ブリテン諸島は幾度か冷夏・厳冬に見舞われるようになっていったらしい。極めつけは1309年から翌10年にかけてだ。作者不詳の年代記によればこの年は雨が少なく、テムズ川が凍結するほど異常に寒い冬になったことが分かっている。

大飢饉の発生

1315年から17年にかけて、北ヨーロッパは「大飢饉」と呼ばれる未曽有の災害を経験することになる。厳冬を経て1312年になると冬は再び穏やかになったが、その3年後、復活祭から7週間たったころに雨が本格的に降り出した。

イングランド、フランス、ドイツ、低地地方など様々な地域で多くの人々がこの大雨を記録しており、押し流される堤防やぬかるみだらけになった路地、壊滅的な被害を受けた穀物、洪水で流されてしまった村の様子などを書き残している。

すでにそれ以前の数年間も収穫が少なく、物価もあがっていたが、1315年の収穫はそれよりもさらに悲惨なものとなった。秋になっても小麦やライ麦を植えられず、牧草をいつものように干し草にすることもできなかった。

またたく間に飢えが始まり、物価は見る見るうちに上昇していった。イングランドでは1315年の6月に小麦の価格が2倍になり、低地地方のベテューヌやブールジュでは3倍に跳ね上がった。

厳冬で始まった1316年も豪雨が続き、ひどい不作となった。その年には例えばイングランド南部のウィンチェスターの荘園のように、通常の55.9パーセントしか穀物を収穫できなかった地域も存在した。1318年になると一部では回復の兆しも見られたが、広い地域において悪天候はその年まで続き、収穫量が平年並みに回復するのに1322年まで待たねばならなかった。

大飢饉がもたらした被害

この飢饉により、北ヨーロッパの人口の10から15パーセントが死んだ。この値はあくまで平均値であり、ハンプシャーのいくつかのマナーでは一四世紀初期の年間死亡率が50パーセントにものぼったことが分かっている。低地地方のイープルでは役人が遺した記録のおかげで、1316年の5月から11月にかけて少なくとも2,794人(都市人口の10パーセント程度と推定される)が死んだことが分かっている。

栄養不足によって病気にかかった者、困窮して草の葉や根、さらには病死した家畜の死肉や動物の糞を食べた者もいた。イングランド王エドワード2世でさえも、1315年8月にセント・オールバンズに滞在した際は小麦不足によりパンを入手することができなかったと言われている。

養いきれなくなった家族を他家の住込奉公人にしてしまう者や、自身の農地を売ったり抵当に入れざるを得なくなった者が後を絶たなかった。自らの家族を食べて空腹を満たすなど、カニバリズムも発生したと言われている。また、泥棒や墓荒らしが横行した。多くの農村が放棄され、各地の共同体が徐々に解体していった。

戦争による追い打ち

さらに、このような壊滅的な被害は悪天候のみが原因ではなく、戦争による略奪や荒廃も作用していたことを見逃してはならない。スコットランド人によるアイルランドや北イングランドへの遠征もこのような状況下で行われたことを考慮する必要があるのだ。ブルースとその家臣たちにとっては、高騰する穀物価格への対応と食糧確保の必要性があった。1315年のアイルランド遠征においてロバート1世の重臣であるマリ伯がアイルランドから船で多量の穀物を持ち帰ったという記録は、その一端を示している。

また、そのような侵略を受けたイングランド北部やアイルランド側の荒廃は悲惨であり、地域の修道院や小領主がしばしば地代の支払い不能になる事態に陥ったのだった。飢饉による困窮と戦争遂行のための税負担が、地域の小領主たちを1322年の王に対する反乱参加へと突き動かしたと考えられている。

大牛疫

この大飢饉と同時期に発生した家畜の疫病が、人々の生活をさらに苦しめることになった。大飢饉と同時に家畜の大量死があったことは以前から知られていたが、近年の研究によって、この疫病はモンゴルからアイスランドに至るまでの広い範囲で発生した「パンデミック」であることが明らかとなった。

牛疫ウイルスを原因とするこの感染症は、その規模の大きさから大牛疫と名付けられている。この感染症は1315年には中央ヨーロッパに到達し、その10年後にはアイスランドにも上陸したと考えられている。

史料が最も豊富なイングランドでの研究によれば、1319年から翌20年にかけてイングランド全土でおおよそ62パーセントの畜牛が死滅したと推定されている。畜牛の死滅率には地域的な偏差があり、特に被害の大きかった地域では死滅率が100パーセントに達しているところもあったと言われている。疫病以外の死因も当然含まれていたと考えられるが、それらを差っ引いたとしても被害が甚大さは一目瞭然だ。まさに、飢饉という悪魔の上に疫病という別の悪魔が追加された形になったのだった。

当時の農村社会における牛の重要性

当時のヨーロッパ社会において、牛は非常に重要な役割を持っていた。当時牛は畑を耕すための労働力として重宝されたほか、その堆肥は作物を育てる上で欠かせないものであった。

また、当時の農民が牛肉を食すことは稀であったと考えられるものの、乳牛から生産されるヨーグルトやチーズは当時のヨーロッパ農民の貴重なタンパク源であったと考えられている。そのような牛の不足は耕作の代替手段である馬の物価高騰や窃盗を招き、乳製品をはじめたとした食糧を代替するために羊や魚、そして当時の「庶民」にはめったに食されることはなかったとはいえ、牛肉の価格高騰を招いた。

スコットランドが受けた被害

そして、この疫病はスコットランドにも到達し、同地を混乱に陥れた。イングランド北部、タインマスの司教代理ジョンによって1350年頃に書かれた年代記によると、1319年のエドワード2世によるベリック遠征の際、突如として発生した疫病により遠征に動員された牡牛がことごとく死滅したらしい。

そしておそらく、同年のスコットランド側による略奪遠征隊は、その病原を自国に持ち帰ったに違いない。スコットランドでもほぼ同時代に書かれた年代記が、誇張交じりではあろうが、1321年に「ほぼすべての動物が死滅した」と述べている。スコットランドの史料からはその地理的な影響範囲や経済的な被害の大きさを計算することは困難だが、わざわざ年代記作者が記録を残していることを鑑みると、いずれにせよ大きな被害を被ったことだけは間違いないと言えるだろう。

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