YuRAN-HIKO

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百年戦争とスコットランド④:王位継承と臣従

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ノルウェイの乙女マーガレット (Wikimedia Commons)

アレグザンダー三世の死

一二八六年三月一九日、スコットランド王アレグザンダー三世はフォース湾沿いのキングホーンに滞在中、突如この世を去ってしまう。彼は落馬による事故で亡くなったと言われている。不幸にも、彼の子どもたちデイヴィッド、マーガレット、アレグザンダーは数年前に相次いで亡くなっていた。

三人の子どもたちが亡くなった後、もし王に他の世継ぎが生まれなかった場合には、娘マーガレットとノルウェイ王エイリーク二世の間に生まれた幼子、ノルウェイの乙女マーガレットを推定相続人とすることが決められていた。未成年が王位を継承すること自体は初めてではなかったが、この不幸の連続はスコットランドの歴史を大きく変えることになる。

何事もなければ、スコットランドの王位は当時三歳のマーガレットに継承されるはずだった。しかしながら、当時のスコットランドの政治情勢は不安定であった。

一二八七年、王家の遠縁にあたるロバート・ブルースが挙兵し、ベイリオル家やカミン家が有するスコットランド南西部の諸城を攻撃した。彼がこのとき王位を狙っていたかどうかは定かではない。彼の企てはさほど大きな成功を収めなかったようだが、この紛争は王国内部での潜在的な対立を示唆していた。

それ以外にも、王国各地でエリート間の派閥争いや反目が生じていた。一二八九年には、当時スコットランドの中央行政を統括していた護国卿のひとりが謀殺されてしまう。エイリーク王はそのように政情不安定な土地に娘を送り出したくなかったのだろう。結果的に、マーガレットは一二九〇年までノルウェイに留まり続けることになる。

ノルウェイの乙女

六名の護国卿は、隣国の名君かつスコットランド王家の親戚、かつノルウェイ王家とも友好的なイングランド王エドワード一世に助けを求めた。当初彼はアキテーヌの問題解決に忙殺されており、スコットランドにはさほど関心を向けていなかった。

事態はようやく一二八九年になって進展を始める。ほどなくして、エドワード一世の息子エドワード(後のエドワード二世)とマーガレットの結婚の話が持ち上がった。しかし、両王家は親戚関係にあり、そのままでは近親婚となってしまう。エドワード一世は教皇と交渉して特赦を獲得し、二人の結婚に向けた協議は着実に進められていった。

一方、この結婚を取っ掛かりとして、イングランド王がスコットランドに介入する可能性があった。先代のヘンリ三世も自身の娘をスコットランド王家に嫁がせ、監督者として政治介入を行っていたという過去の経緯があった。事実、アレグザンダー三世の死後、二十年前にスコットランドが獲得したマン島はいつの間にかイングランド王の家臣であるアルスター伯リチャード・デ・バーグの監督下に置かれてしまっていた。また、エドワードは境界地域の都市ロクスバラや、スコットランド西部の島嶼部に介入する姿勢を見せていた。

スコットランドの貴顕たちはそれを懸念した。彼らは、両王国は別個のものとして存続し、王国の権利、自由、慣習は守られるようイングランド側との交渉を続けた。最終的にその交渉は一二九〇年七月にバーガムでまとまり、翌月には王によってノーサンプトンで承認された。スコットランド側が主張してきた王国の権利、自由、慣習の保持はその条約の中で明記されている。エドワード側にしてみれば、婚姻を通じてスコットランドが自らの王国と連合を形成すればよいのであり、直接的な支配はこの時点では主たる問題ではなかったと言える。

一二九〇年九月、マーガレットとその従者はノルウェイを出発し、スコットランド北部のオークニーに到着した。ダラム司教とサリー伯を筆頭としたイングランド使節はそこへ向かう道すがら、パースの町にて「スコットランドの貴顕たち」と顔を合わせている。

このとき皆々は、両王家の若きカップルが縁組を行い、スコットランドは平和的に、かつ王国としての独立性を維持したまま、アンジュー家の支配領域のひとつに入っていくことを予想していたに違いない。

王家の断絶と王位継承問題

しかし、事態は思わぬ方向に傾き始める。パースに集っていた者たちのもとに、マーガレットが亡くなった知らせが届いたのだ。彼女は若干七歳であった。

悲嘆にくれる間もなく、早くも翌月には、ロバート・ブルースが軍を動員し、自身の王位継承を認めさせようと動き始めた。幼き乙女の死により、スコットランドは一気に内戦状態に陥る可能性があった。しかし、彼の企ては同じく王家の遠縁であったジョン・ベイリオルと、彼に味方する聖俗貴族やイングランドの使節によって阻まれた。

カミン家の支持を得たベイリオルと、自身の党派で固めたブルースの双方が王位継承を主張し始めた。ベイリオルはイングランドの使節であったダラム司教と提携し、イングランド側の支援を得ようとした。ブルースも黙ってはおらず、彼は「七人の伯の請願」というある種のプロパガンダを発し、エドワード一世に自身の正当性を訴え、彼の庇護を求めた。かたや、マーガレットの死によってそれまでの取り決めは白紙となり、エドワードはさらに高圧的な態度に出るようになる。

エドワード一世は大軍勢を引き連れて北上する。一二九一年五月、彼は北イングランドのノラムで議会を開催した。スコットランドの護国卿たちに対して、王は「余の宗主権に基づき」裁定を下すために来たと告げた。議会では公然と、スコットランドに対するエドワード一世の宋主権が唱えられた。一方、スコットランド側はあくまでエドワードに中立的な仲裁者としての役割を求めていた。

王位継承問題に対して、王は仲裁者としてではなく、審判を下す裁定者として臨む姿勢を崩さなかった。その態度は、彼がその主張を裏付ける論理的根拠を、王国の各修道院に所蔵されている年代記から探し出させたことにも表れている。

スコットランド側はこの振舞いに対して、自分たちには彼の要求を受けいれる権限はなく、唯一王となるもののみがその点に関して協議できると返答を行った。彼らは直接的な返答を避けて問題を曖昧にしたまま、エドワード一世による問題解決を受け容れていった。

大訴訟

候補者は総勢一三人にも及んだ。中でもスコットランド王ウィリアム一世(一一六五~一二一四年)の弟ハンティンドン伯デイヴィッドの長女の血筋であるベイリオルと、次女の血筋であるブルースの二者が一歩リードしていた。

各候補者はエドワード一世をスコットランドの宗主として認め、彼の決定に従うことを要求された。真っ先に、ベイリオルよりも劣勢にあったブルースが、彼の宗主してを認めた。それを受けて、次々と残りの候補者もエドワードを宗主として認めていった。この要求の拒否は王位継承の候補者から外されるという懸念も影響し、最終的にベイリオルも含め、全候補者がエドワードを宗主として認める状態となった。

七月にはスコットランドの護国卿以下、指導的立場にあった者たちもそれに従い、王に対して臣従礼を行った。

エドワードは八月、王位継承を巡る裁判を開始した。歴史上「大訴訟」と呼ばれている事件だ。最終的に、ハンティンドン伯の長女という生まれの順序を優先するか、それとも親等の近さを優先とするかで、ベイリオルとブルースの主張が争われた。

議論は何度かの休廷を経て、最終的に一二九二年の一一月、ジョン・ベイリオルの王位継承が確定した。ブルースは自身の権利主張を放棄し、その息子のキャリック伯は息子のロバート・ブルース(後の王ロバート一世)に伯領を譲渡してスコットランド内の所領を全て放棄した。

一一月三〇日にベイリオルは即位式を終えると、その翌月、エドワード一世に対し「スコットランド王国に関して」一身専属的な臣従礼を行った。これにより、スコットランド王国は独立した王国ではなく、イングランド王から与えられる封となった。

レファレンス

記事

書籍

論文

  • Barrow, G. W. S. ‘A Kingdom in Crisis: Scotland and the Maid of Norway’. Scottish Historical Review 69, no. 2 (1990): 120–41.
  • Prestwich, M. ‘Edward I and the Maid of Norway’. Scottish Historical Review 69, no. 2 (1990): 157–74.
  • Stevenson, W. B. ‘The Treaty of Northamton (1290): A Scottish Charter of Liberties?’ Scottish Historical Review 86 (2007): 1–15.