百年戦争とスコットランド⑤:重なり合う紛争ー①

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ジョン王の治世は、一二九二年から一二九六年の四年弱しか続かなかった。しかし、その期間にはその後のイングランド、スコットランド、フランスの関係を考える上で重要な数多くの出来事が発生した。

ジョン王の治世

ジョン王の統治権力は、自らの王位継承を支持したエリート層に大きく依拠せざるを得ないものだった。中でもその筆頭がスコットランドの一大有力貴族、カミン家とその支持者たちだった。実のところジョン王は大訴訟までほとんどスコットランドに関わったことがなく、王国の内情についても疎かった。

そのため彼はカミン家を始め、大訴訟で自身を支持した人々の意向を無視して統治を行うことが難しかったと言える。実際、地方・中央の役人の多くは親カミン的な立場を取る人々だった。彼らは王への支持を報いられ、その恩顧にあずかるところとなる。彼らの意向を無視できないというのは、ジョンの政策の性格と統治の限界を考える上で重要なファクターのひとつだ。

カミン家は一三世紀の前半からスコットランドで力を持ち始め、強固な権力基盤を王国中で確立した一族だ。しかしながら、王国には彼らやその支持者と利害を異にする人々も少なからず存在した。このエリート層の利害対立と王のえこひいき的な政策が、多くの問題を生むことになる。

例えば王国西部の島嶼地域において、ジョン王はカミン家の親族にあたるマクドゥガル家に実権を与え、その地の支配を試みた。しかし、それは長らくマクドゥガル家のライバルであったマクドナルド家の反発を招き、地域紛争を刺激することになった。

政治対立と上訴

ジョン王は即位直後から、王国内の土地や権利をめぐるさまざまな問題の解決に取り組んだ。しかし、特定の支持基盤に依拠した彼の政策は、それを好意的に思っていない人々からの反発を少なからず生んでしまうこととなる。スコットランドの国王宮廷や議会の裁定に不服を抱いた彼らは、自らの正当性を主張するため、ジョン王の主君であり、今やスコットランドの宗主であるイングランド王エドワード一世に上訴した。

ジョン王の即位直後、ベリック市の商人ロジャー・バーソロミューなる人物は、護国卿時代に彼に対して下された三つの判決を不服とし、エドワード一世に上訴を行った。スコットランド側は当初、王国の法と慣習は遵守されるべきとした一二九〇年の条約を持ち出し、エドワードの裁判権は認められないと主張した。一方、イングランド側は上級支配者として当然そのような裁判権の行使は認められるべきという立場を取った。

最終的に、ジョン王は主君の上級支配権、すなわちエドワードが上訴を受け付け裁定を下す権利を認めた。これにより、スコットランド内部での判決に不服がある場合は、それをイングランドの法廷に上訴するという道が開けることとなった。

その数は決して多くなく、ジョン王の三年半の治世下で一〇件にも満たない。しかも、そのすべてが上記のような対立構造から発生した訳でもない。しかし、上級領主としてのエドワードの政治介入は、スコットランドの貴顕層からは彼らの利害を脅かすものとして、強い反感を買うようになる。

マクダフの訴訟

スコットランドの名門、ファイフ伯家の御曹司であるマクダフの訴訟は中でも顕著な例だ。マクダフは一二八九年に謀殺された護国卿のひとり、ファイフ伯ダンカンの弟で、兄の死後、伯領内の土地の帰属をめぐって護国卿のセント・アンドリューズ司教と争っていた。

時のセント・アンドリューズ司教はアレグザンダー三世の治世末期からスコットランドの政治の中枢にいた人物であり、護国卿として活動した後、ジョン王の政府においても重要な役割を占めていた。そのような人物を相手取っての訴訟は、いかに名家の出身とはいえ政治的な実力を持ち合わせていないマクダフにとって、最初から不利なものだった。

ジョン王の即位直後、マクダフは議会に出頭を命じられる。そこで彼は自身の権利を主張したものの、議会はそれを認めず彼を一時的に投獄するという処置を取った。スコットランドの国王宮廷や議会では自身の権利を回復出来ないとみたマクダフは、この件をエドワード一世の法廷に上訴すると決める。

エドワードはたびたびジョン王に出頭を求めた。家臣が主君の法廷に出頭し、その裁定に従うのは当然のことであった。ジョン王は最初の出頭を拒否こそすれ、再度出頭が求められた際にはイングランドに赴き、一二九三年九月に開かれた議会に出席した。

しかし、そこでの彼の返答は、自分の王国の「責任ある者たち」の助言なくしては自分はエドワードの要求には答えられないし、その裁判権を認めることもできないの一点張りであった。それを言い訳にして、ジョン王は訴訟を回避しようとしていたと考えられる。

しかしながら、エドワード側はジョン王が自身の裁判権に従わないのは明確な命令不服従だとして、スコットランドにある三つの城の没収を持ち出してジョン王を脅迫した。

最終的に、ジョン王はその脅迫に屈し、次の三月に開かれる議会までに王国の臣民たちの助言を受け、その議会でしかるべく返答することを約束した。エドワードもこれを承認し、訴訟が終わるまでファイフ伯領を自らの管理下に置くことを決めた。ジョン王もその対応を容認した。

エドワードはファイフ伯領の管理を通じて、ますますスコットランドの内政に干渉するようになる。当事者であるセント・アンドリューズ司教を始め、エドワードの介入と利害対立する人々は、この方針を快くは思っていなかっただろう。

重なる不信

エドワード一世によるこのような上級支配権の主張と行使は、スコットランド貴族の中で彼に対する反感を生むことになった。この問題に関して、エドワードが自身の宋主権を主張して支配しようとしていたことは明確だ。彼はスコットランド内部の利害対立をうまく利用し、スコットランドへの圧力を強めていった。

スコットランド政府の中枢を占めていた貴顕たちは、王国の法や慣習を無視して自分たちの利害を侵害しかねないエドワードの行為にますます脅威を抱いていくようになった。

ジョン王の立場は微妙で、彼は家臣としての義務は守りたいと考えつつ、自身の支持基盤である貴顕層の意向も無視できないといったように思われる。そのようなどっちつかずの態度を前にして、彼に対する貴顕たちの信頼や忠誠は徐々に揺らいでいった。

このマクダフの訴訟とならんで、もう一つの問題が引き金となって、両王国の関係は急激に悪化していくこととなる。それを見ていく前に、いちど視点を変えて、この時期のイングランドとフランスの状況を見てみることにしよう。当時のイングランドとフランスの関係が、スコットランドも巻き込んで大きな時代のうねりを作っていくことになる。

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