YuRAN-HIKO

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百年戦争とスコットランド II-I:反逆と内戦

一三〇六年二月のジョン・カミンの殺害を描いた一九世紀のイラスト画 (Public Domain)
一三〇六年二月のジョン・カミンの殺害を描いた一九世紀のイラスト画 (Public Domain)

ロバート・ブルースの戦い

一三〇六年から一三二八年の期間は、スコットランド中世史においてもとりわけ人気を集めている時期だ。一三〇六年二月一〇日、スコットランド南部にあるダンフリースの教会で、キャリック伯ロバート・ブルースがジョン・カミン殺害するという事件が起こった。ブルースはそのまま王位継承を宣言し、ロバート一世として各地を転戦。一三一四年にはバノックバーンの戦いでイングランド軍に決定的な勝利をおさめた後も対イングランド戦争を展開し、一三二八年にはエディンバラ=ノーサンプトン平和条約で自身の王位とスコットランド王国の独立をイングランド側に認めさせる。スコットランド史上屈指の英雄として、その人気は絶大なものだ。

本章で見ていくのは、そんなロバート・ブルースが戦いに明け暮れた一三〇六年から一三二八年の期間だ。しかし、実のところ特に大陸との関係において、彼の戦争はその大部分をフランス王を始めとする各国君主の支援を得ずに遂行されたものだった。そのため、本章はおもにブリテン諸島の内部における歴史の流れを見ていくことになるだろう。スコットランドが再び大陸との関係の舞台に登場してくるのは、一三二〇年代半ばになってからだ。まずは、そこまでの流れを主にイングランドとスコットランドの関係を軸に見ていくことにしよう。

内戦に陥るスコットランド

一三〇五年に成立したスコットランドの新体制において、聖俗貴顕たちの処遇はさまざまであった。それまで戦争を主導してきたカミン家に対するエドワード一世の対応は、好意的なものだった。彼らはスコットランド各地にある膨大な所領を安泰されたほか、中央政府の評議会メンバーとして直接的に、もしくは自身の支持者を通じて間接的に行政に影響を及ぼすことができた。

一方で、新体制において王の恩顧を受けられなかった者たちも存在した。国外追放に処されたステュワートやグラスゴー司教がその一例だ。州長官の職を取り上げられた上に大した恩賞も、中央政府でのポストも与えられなかったロバート・ブルースも同類だった。この時期、ブルースはセント・アンドリューズ司教と会談し、将来の危機に備えて対立派閥からの攻撃に抵抗せんとして盟約を結んでいる。彼らの本心を読み取ることは難しいが、依然としてスコットランド内部の派閥抗争は残っており、情勢は決して穏やかではなかったと言えるだろう。

一三〇六年二月一〇日、ロバート・ブルースはスコットランド南西部に位置するダンフリースの教会にて、ジョン・カミンと会合を開いた。年代記の記述によれば、「両者に関する事柄」について議論がなされたらしい。年代記の中にはより踏み込んで、その論点がブルースの王位継承だと述べるものもある。しかしながら、その話し合いで折り合いがつかなかったために、ブルースは教会という聖域においてジョン・カミンを殺害するに及んだ。この殺人が事前に計画されたものだったのか、それとも突発的な行為だったのかは明らかでなく、歴史家による議論が続いている。現代の歴史家はブルースが王位を狙っていたこと、ならびにそれがカミンに受け容れられなかったことが、最終的に彼を殺害するに至った動機と見ているようだ。

なぜここで王位の話が出てくるのか。実は、彼は一二九二年の大訴訟でジョン・ベイリオルと王位を争った同名のロバート・ブルースの孫にあたる。一二九六年にジョン王が実権を失った後、彼は虎視眈々と次の王位を狙っていた。しかし、エドワード一世はスコットランドをもはや王国とは認めず、公文書においてもただそれを「大地」と呼んだ。また、エドワードに服従し、彼を主として新たなスコットランドの支配体制を整えようとしていたカミンにとっても、その主張は受け容れられないものだったのだろう。結果、カミンは殺害された。この事件から六〇年ほど後、スコットランドのある聖職者によって書かれた年代記は彼の死を「犠牲」と表現した。

ブルースはその後スコットランド南西部の城を制圧しながら家臣やセント・アンドリューズ司教など聖俗貴顕を仲間に加えていき、三月二五日に古来スコットランド王の即位の地であったスクーンで即位式を挙行、スコット人の王ロバート一世を名乗った。後世に書かれたスコットランドの年代記は彼の事績を肯定的に叙述するものの、これは明らかに王位の簒奪であり、エドワード一世に対する反逆に他ならなかった。

実際、スコットランドに土地を保有した者たちの中でこの時期彼に味方したのは三分の一程度に過ぎず、彼は王国の大多数の支持を得て王位についたわけではない。その意味で、彼は決して後世称賛されるような民族的英雄でもなく、その戦争は祖国のための戦いではなかった。むしろ、スコットランドはブルースに味方する者とエドワード一世やカミン家との繋がりを維持しようとする者に二分され、内戦状態に陥っていったと解釈する方がより当時の実態を捉えていると言える。

敗戦に次ぐ敗戦

エドワード一世は事件の一〇日ほど後にカミンの死を知ったものの、当初はスコットランド内のよくある貴顕の内輪もめ程度としか認識していなかった。しかし、ブルースがそれを聞き入れずに王位を宣言したことで、彼はそれを自身に対する背信と理解するようになった。四月、エドワード王は自身の半いとこで忠臣ののエイマー・ド・ヴァレンス(亡くなったジョン・カミンの義理の兄弟)に反乱の鎮圧を命じた。ヴァレンスはロバート一世の事績を讃えた叙事詩の表現を借りるならば、竜の描かれた軍旗を掲げて反逆者を徹底的に懲罰するとして恐れられていた人物だ。

最初期の戦局は、ブルース側の敗戦に次ぐ敗戦だった。六月下旬にはエイマー・ド・ヴァレンスがスコットランド中部メスヴェンの地にてロバート一世を敗走させた。続く七月ないしは八月には南西部のダール・リーの地で、カミン家の親戚であるマクドゥガル家の従者が彼を打ち破った。

敗戦によって仲間たちは散り散りとなり、ロバート一世はその年の秋から冬にかけてをアイルランドないしはスコットランド西部の島嶼地域で潜伏して過ごした。弟のニール・ブルースや同盟者のアソル伯、妻のエリザベスは捕虜となった。エドワード一世は捕虜となった男たちを「反逆者」として処刑した。女性は命までは取られなかったが、投獄され厳重に管理された。高位の貴顕が処刑という屈辱的な罰を受けるのはそうあるものではなく、女性が投獄・監禁されるというのも当時異例の事態だった。しかも、アソル伯ジョンはイングランド王ジョン(一一九九~一二一六年)の血を引く人部だった。しかしエドワード王からすれば、ロバート・ブルースと彼に付き従った者たちの行いは自身に対する反逆以外の何物でもなかった。

また、聖域での流血行為は当然ながらカトリック教会にとって看過できない問題だった。同年五月一八日、時の教皇クレメンス五世はフランス南西部、ワインで有名なボルドーの町にてロバート一世に破門を宣告する。当時のキリスト教社会において、破門された者は死後の魂の安寧も保証されず、支配者としては自身の権威の失墜にも繋がりかねない重大な出来事だった。ちなみにこのクレメンス五世は、教皇になる前はボルドーの大司教としてエドワード一世に臣従していた人物であり、イングランド王家との結びつきが強い人物であった。

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