YuRAN-HIKO

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百年戦争とスコットランド II-II:バノックバーンへの道

バノックバーンの戦い (20世紀初頭のイラスト) (Public Domain)
バノックバーンの戦い (20世紀初頭のイラスト) (Public Domain)

ブルースの再起と一三〇七年冬の北征

再起

ロバート一世は潜伏地において、在地のゲール系家門の助けを借りて再起をはかっていた。これらの家門は、島嶼地域で前述のマクドゥガル家と対立関係にあり、かつロバートと婚姻を通じて親戚関係にあった。その支援は決して純粋な友情から来るものではなかっただろうが、両者は自家の目的を遂行する上で政治的にウィン=ウィンの関係を築くことができた。

彼はそこで戦力支援を得ながら翌年の一三〇七年二月、キャリックの地に舞い戻って勢力を結集し、戦争を再開する。そこから七年間、彼は徹頭徹尾、焦土作戦を組み合わせたゲリラ戦を展開した。まず手始めに、五月にラウドン・ヒルの地で、エイマー・ド・ヴァレンス率いる騎馬隊にはじめての勝利を収めた。

冬の北征

以降、ロバート一世はスコットランド各地で勝利をおさめながら、ハイランドを縦断して北部への遠征を決行する。カミン家=マクドゥガル家の勢力を削ぐことがその目的に合ったのだろう、一〇月から一二月にかけて彼はインヴァーロッキー、アーカート、インヴァネス、ネアンの各城をまたたく間に征服、その年末から翌年初にかけて北部の親エドワード派の貴顕たちと抗争を繰り広げた。

最終的に一三〇八年五月、ロバート王はカミン家の本拠地であるバカン伯領を徹底的に攻撃し、これを荒廃させる。これら一連の戦闘でカミン家の勢力は大きく削がれ、スコットランド北部はブルース側の手に落ちることとなった。

躍進の背景

この時期にロバート一世が地歩を固められた背景には、彼の軍地指導力の高さもさることながら、イングランド側の情勢変化も大いに寄与するところとなった。一三〇七年七月にエドワード一世が六八歳でこの世を去った。

その後継者である息子エドワード二世は取り急ぎイングランドの支配基盤を固める必要があった。長引くスコットランド戦争は財政を圧迫し、政治改革の要望が貴顕層から上がった。彼が親友ピアーズ・ギャヴェストンをこの上なく寵愛したことも、先王時代から王国を支えてきた貴顕たちの反発を招いた。義理の父であるフランス王フィリップ四世との関係がこの問題をさらに複雑化させていた。このような国内の政情ゆえに、一三〇八年に計画されたスコットランド遠征も中止となった。

その後、エドワード二世自身による遠征が一三一〇年九月に一度敢行された。彼はフォース湾以南にある各拠点を点々としたものの、目覚ましい戦果を挙げることなく王は翌年の八月にイングランドに帰還した。依然として王国の貴顕たちの優先事項は国内の政治改革であり、直接の従軍を拒否し必要最小限の兵数だけ提供して済ませようとする動きも見られた。その間にブルース側は勢力を拡大していく。エドワード二世はある意味で「失地王」なのだった。

イングランド王によって誤って押し付けられた傀儡政権

一三〇九年の議会と宣言

北部を制圧して地歩を築いたロバートは一三〇九年三月、自身の治世ではじめての議会をセント・アンドリューズの地で開催した。議会の目的は自身の王位の正当化だった。

その正当化は、世俗の貴族と聖職者それぞれの宣言を通じて行われ、この時代のヨーロッパの政治思想に則って、彼は王位継承権を持った正当な人物として「王国民の同意によって」王に選ばれた。かたや、それらの宣言でベイリオルはイングランド王によって誤って押し付けられた「事実上の」傀儡の王として否定された。

王国共同体と正義

しかしながら、これらの宣言は特に一三〇六年の反乱以降ロバート一世に付き従った人々を中心とした一派が占めた議会で出されたものであることは強調しなくてはならない。ロス伯のようにそれまでカミン家=イングランド王権側についていた人物もその中には含まれていたものの、まだこの段階では多くの貴顕が議会を欠席するなど、完全にロバート一世を承認していたわけではなかった。アバディーンやギャロゥエイの司教など、高位聖職者の中にも彼に敵対的な人々は依然として存在した。

スコットランド南部の諸都市は依然としてイングランドの支配下にあったし、中部・北部の町パースやダンディーも同様であった。ロバート一世はこの議会で「王国共同体」による自身の王権の支持を強調しているものの、依然としてカミン家に味方している者たちも自分たちを「王国共同体」と呼称している。この戦争はブルースによる一方的な「正戦」でないことには注意が必要だ。

フランス王の公認を得る

しかし、それでもこの時までのロバート一世の勢力挽回は目覚ましかったと言える。スコットランドを南北に分けるフォース湾の北部を中心に、多くの地方共同体や諸都市が彼の支配に服するようになった。一三〇八年から一三一〇年にかけて、新たに彼に味方するようになった貴顕も少なくなかった。

そればかりでなく、前年まではベイリオルをスコットランド王として認めていたフランス王フィリップ四世も、十字軍の協力者を集めていたという背景もあり、同年の七月までにはブルースをスコットランド王と認めるようになった。ロバート側はスコットランドでの戦争遂行を理由にその申し出を丁重に断ったため、それ以上の同盟の発展には至らなかった。しかし、この変化は大陸においても彼の力が一瞥に値すると見なされるようになったことを表している。

南部の征服

一三一〇年から一三一四年までの五年間は、引き続きブルース側による勢力拡大やイングランドへの侵攻が見られ、スコットランドのほぼ全域に彼の支配が確立していった。南部での支配を確立するために、ロバート一世は二つの戦術を取った。ひとつは敵地を略奪して周り、休戦との引き換えに家畜や金品を獲得するというものだった。これが今後の対イングランド戦法の基本をなしていくのだが、一方でそれにより紛争地域は大いに荒廃することになった。

もうひとつの戦術は、イングランド側についている各市や城を兵糧攻めで落としていくことだった。彼らは攻城兵器を持っていなかったため、そのような作戦を取った。ロバート一世とその家臣たちはパース、リンリスゴウ、ロクスバラ、エディンバラ、ジェドバラ、ダンバー、ベリック、スターリングといった要所を次々と攻略し、勢力を拡大していった。加えて、彼らは一三一一年夏にはイングランドとの境域地域を攻撃し、翌年八月にはイングランド北部の司教都市ダラムを焼き討ちする。一三一三年五月にはイングランド内の分断を利用して、マン島を手中に収めた。

ひとつの時代の終わり

バノックバーンの戦い

ブルース側による攻撃は、スコットランド南部のロウジアンからイングランド北部地域を大いに疲弊させた。ブルースに味方していない「スコットランドの民」はエドワード二世に訴え出て、対策を求めた。

王は一三一四年の夏に自ら大軍を引き連れて北上する。現代の歴史家はその数を総勢二万人弱だったと推測している。かたやロバートの軍勢は六〇〇〇人、多く見積もっても一万人に満たなかった考えられている。その主体は斧と槍を持った歩兵であり、兜は着けているものの防具は比較的軽装だった。

しかしながら、そんな彼らが六月二三から二四日にかけて、スターリング近郊のバノックバーンの地でエドワード二世率いる軍勢を敗走させる。エドワード二世は騎馬、ついで舟で逃走し、遠征に従った多くの兵士や貴顕たちは戦死もしくは捕囚の身となった。

続く戦いと終わる戦い

バノックバーンの戦いで、ロバート一世の戦いが終わったわけではない。最終的にイングランドとスコットランドの間で和平が結ばれるのは、それから一四年も後のことだ。

しかしながら、この戦いはひとつの戦争を終わらせることになった。一三〇六年に殺されたジョン・カミンの息子であり、バカン伯亡き後カミン家の最後の指導者として、エドワード側に味方して戦っていたジョン・カミンがこの戦いで死亡した。アンガス伯やダンバー伯など、エドワード側に味方した他のスコットランド貴顕も捕らえられ、戦いの後ロバート一世に降伏した。

カンバスケネス議会と所領没収宣言

この戦いでの勝利は、ロバート一世にスコットランド王国での絶対的な権力をもたらすことになった。一一月、彼はカンバスケネスで開かれた議会において、自身に服従しないものに対する所領没収宣言を実行する。この所領没収は多くの「廃嫡者」を生み、彼らはイングランドへの亡命を余儀なくされた。

これにより、イングランドとスコットランドの双方の王に仕え、境界に跨って所領を保有する可能性が閉ざされることになった。両国の政治社会はさらに分断された。バノックバーンの戦いはブルース家とカミン家というスコットランド内部の対立を終結させるとともに、境界を跨いで所領を持つというひとつの政治社会のあり方を事実上終わらせることにもなったのだ。

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