YuRAN-HIKO

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ヨーロッパの成立 950-1350年

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時代によって変化するヨーロッパ

ヨーロッパ。ユーラシア大陸の北西端に位置するこの巨大な半島は、古代からひとつの地理的な枠組みとして捉えられてきました。

古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、世界がアジア、リビア、ヨーロッパの3つに区分されていると伝えています。彼はまた、ヨーロッパの境界はコルキスの川パシス(現在のリオニ川)ないしはドン川であると述べています。[ヘロドトス(松平訳) 2013]

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ヨーロッパの地理的広がり (Wikipedia Commons: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Europe_orthographic_Caucasus_Urals_boundary.svg)

しかし、ヘロドトスがイメージしていたヨーロッパは、今私たちが思い浮かべるものとは同じではありません。現在ではヨーロッパの東は水域ではなくウラル山脈とされていますが、これは18世紀スウェーデンの地理学者フィリップ・ヨハン・フォン・シュトラーレンベルクが提唱したものとされています。

また、ヘロドトスはヨーロッパの東方及び北方が「河海に囲まれているか否かを明白に知っている者は皆無」と述べています。ヘロドトス自身は明言していませんが、おそらく彼のヨーロッパ観にはブリテン諸島は含まれていないでしょう。[ヘロドトス(松平訳) 2013]

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ヘロドトスのヨーロッパ観復元図 (Wikipedia Commons: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Herodotus_world_map-en.svg)

つまり、ヨーロッパとは固定化されたものではなく、実体としてもイメージとしても常に変化するものと言えます。そんなヨーロッパを西洋中世史家のロバート・バートレット氏はこう言い表しています。「ヨーロッパとは地理的なものであると同時に概念的なものである」と。その社会や文化は多様で変化に富み、ひとくくりにそれらを「ヨーロッパ的」と呼んだ際に意味するものもまた、時代によってさまざまに変化してきたのです。[Bartlett 1993]

ヨーロッパ共通の土台をなすもの

ヨーロッパそれ自体をひとつの社会や文化の枠組みとして捉えることは、今日では自然なことのように思えます。イギリス、フランス、ドイツは別々の国であっても、ヨーロッパという共通の土台に立っていると言っても違和感を覚える人は少ないでしょう。

いったい、そのまとまりの土台をなしているものは何なのでしょうか。やさしい問いではありませんが、その根源を探求することは今日のヨーロッパなるものを理解する上で重要な手がかりを与えてくれます。

ひとつには、その起源を中世初期に求める考え方があります。古代ローマの遺産を、ローマ・カトリックという共通の宗教、ゲルマンの精神。これらが融合しヨーロッパの基盤をなしたのが中世初期である。このような考え方は古くから西洋の歴史家たちによって唱えられてきました。[増田 1967]

この考え方は起源論としては有効であったとしても、それだけでは今日のヨーロッパの成り立ちを説明し切れるわけではありません。先ほども述べたように、時代によってヨーロッパは常に変化しているためです。

20世紀の末、ヨーロッパの形成を中世初期ではなく、中世中期(おおよそ11世紀から13世紀)に見出す説が唱えられました。その説を述べたのが先述のバートレット氏です。氏は著書『ヨーロッパの形成』において、およそ950年から1350年にかけての400年を経て、ヨーロッパは今日イメージされるものに近い地理的な広がりと内部の一体性を伴うようになったと述べています。[Bartlett 1993]

ただしそれは、かつてローマ・カトリック教会の圏内だった地域の話。バートレット氏はそれをラテン・ヨーロッパと呼んでいます。そこにはギリシア正教を信奉していた地域が含まれていない点は注意が必要です。

征服と植民:ラテン・ヨーロッパの拡大

中世の初期と後期のヨーロッパを比べた際、ラテン・ヨーロッパの地理的な広がりの差は明確です。紀元1000年以前には、この地域はブリテン諸島、旧カロリング帝国の支配域、そしてイベリア半島の北端にしか広がっていませんでした。北欧や東欧には非キリスト教の世界が広がっており、イベリア半島の大部分はイスラームの支配下。ラテン・ヨーロッパは北からのヴァイキング、南からのイスラーム、東からのマジャール人といった民集団の進出を受ける側だったと言えます。

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カール大帝時代のカロリング帝国の版図 (Wikipedia Commons: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Francia_814.svg)

一方、10世紀以降東欧や北欧に対するキリスト教の伝道活動が展開されます。また、聖俗の諸侯は領土拡張の一環として自由特権を持った都市や村落を創設して植民活動を推奨しました。さらにはドイツ騎士団のような宗教騎士団が組織され、彼らは武力で東の非キリスト教圏に進出し、征服活動を進めて行くことになります。最終的に、1386年にリトアニア人の王朝がポーランドの王位と引き換えにカトリックを受け入れることで、「ヨーロッパ最後の異教国」もカトリックの傘下に入りました。[Bartlett 1993] [山内 1997]

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1300年頃のドイツ騎士団領 (Wikipedia Commons: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Deutscher_Orden_in_Europa_1300.png)

イベリア半島は「レコンキスタ(再征服活動)」によって、カスティーリャやアラゴン、ポルトガルといったキリスト教国の南進が数世紀にわたって続きます。14世紀に入るとそれらの国々が半島の大部分を支配するようになっており、イスラームの支配圏は半島南端のグラナダ周辺にまで縮小していました。

南イタリア、クレタ、キプロスでもギリシア系の人々やイスラーム教徒など多様な民族や宗教が併存していましたが、それらはカトリックの君主によって支配されるようになっていました。この400年のあいだに、ラテン・ヨーロッパ世界は大きく拡大したのです。

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レコンキスタと各都市の征服年 (Wikipedia Commons: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Spain_Reconquista_cities.png)

ラテン・ヨーロッパの拡大の原動力として、バートレット氏は征服 (Conquest)植民 (Colonization) を挙げています。[Bartlett 1993]

それは平和的になされたものもありますが、多くは血を伴う暴力的なものでした。第1回十字軍で見られたような非キリスト教者の虐殺は有名ですが、それ以外にも数々の戦争や都市の占拠、異教徒側の反発や反乱がこの拡大の動きの中で見られました。

内部に対する征服と植民

また、そのような征服と植民の動きはラテン・ヨーロッパの外部に対して向けられたものだけではありません。アイルランドが特に顕著な例ですが、拡大の動きはラテン・ヨーロッパの内部にも向けられました。アイルランドは当時すでにカトリック世界の一部だっただけでなく、中世初期においてはカトリックの一大中心地のひとつでした。アイルランドの修道士たちはブリテン諸島内部での伝道や、フランク人やドイツ北部のザクセン人に対する布教活動を通じて、カトリックの伝播に大きく貢献をしていたのです。[トマス・チャールズ=エドワーズ 2010]

しかしながら、中世中期のアイルランドが経験したものは、同時代のヨーロッパ北部や東部と類似していました。アイルランドはイングランドの王権や貴顕、都市や農民による征服や植民活動の対象となったのです。また、その地の原住民は同じキリスト教者でありながら「野蛮」というレッテルを貼られ、ラテン・ヨーロッパ内における「他者」としてみなされていったのです。[Bartlett 1993]

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1300年頃のアイルランド。黄土色がイングランドからの植民地。緑がネイティブの支配域。(Wikipedia Commons: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Www.wesleyjohnston.com-users-ireland-maps-historical-map1300.gif)

緊密なネットワークの形成と一体化

ラテン・ヨーロッパ内部の一体性についても、10世紀と14世紀では大きな差がみられます。紀元1000年以前のヨーロッパはより小さな領域の集合体で、地域間の移動ややり取りはずっと少ない世界でした。確かに、中世初期においても活発な交易活動はいくつも見られます。特に北海を舞台とする活発な取引や、スカンディナヴィア人が担ったバルト海の交易の存在は無視できません。後者ははるか4000キロも離れたアッバース朝のバグダッドやサマーラから運ばれてきた商品も含まれていました。[佐藤 2008] [ロンバール 1975]

しかしそれでもなお、11世紀以降のヨーロッパにおける商業ネットワークの発展は目を見張るものがあります。各地で都市が発展し、特にイタリアの都市国家が東地中海を舞台に遠隔地との取引を飛躍的に増大させていきました。それがロンドンやフランドルを中心とした毛織物交易のネットワークやバルト海沿岸の交易ルートと結びつき、そのルートにあたるシャンパーニュでは大市が栄えるようになります。ヨーロッパ中に商業ネットワークが張り巡らされ、為替や手形などの信用決済、航海ごとの団体的資本拠出によるリスク分散技術などが発展したのもこの時代です。[ロペス 2007]

発展したのは商業だけではありません。中世中期には農業技術の発達や気候の温暖化によって生産能力が向上し、人口が大きく増加しました。各地で森林が開拓され耕地となっていき、新たな土地の「征服」や「植民」が進められました。14世紀においても人口過疎の地域や未開墾の土地が残ってはいたものの、中世中期の農業発展にともない地域によっては過剰人口と過剰収穫を伝える史料が登場するようになるのも、そのような景観の変化を物語っていると言えます。[Bartlett 1993] [ロペス 2007]

文化変容

アイルランドやウェールズに対する征服や植民、イベリア半島でのレコンキスタ、東欧や北欧への伝道と植民、十字軍を始めとする地中海東部への進出。このようなヨーロッパ内外に対する「征服」と「植民」の動きはさまざまな文化変容 (Cultural Change) を生みました。[Bartlett 1993]

それは中心から周縁に対する拡大であるとともに、次第に一体性を増す文化圏―今日の(ラテン・)ヨーロッパの土台を形成したのです。征服 (Conqust)、植民 (Colonization)、文化変容 (Cultural Change)–この3つのCが、中世中期における「ヨーロッパの形成」の原動力となりました。[Bartlett 1993]

先に触れたように、当然それは輝かしいものだけでなく、異教徒の虐殺やマイノリティの抑圧といった負の側面も有し、その後のヨーロッパ各地の歴史的発展に大きな影響を与えたと言えます。清濁あわせて、内外に対するラテン・ヨーロッパの拡大とその爪痕を捉えることは、今日のヨーロッパの一体性を考える上で重要なテーマなのです。

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