【ヨーロッパの成立】レコンキスタの展開と実態 11世紀

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ヨーロッパの成立 レコンキスタの展開と実態 11世紀

レコンキスタ以前:中世初期のイベリア半島

中世のイベリア半島の歴史は、古くから多くの歴史家の関心を引いてきました。ゲルマン人の大移動を経て、半島はそのうちの1つである西ゴート人によって支配されていました。彼らの王国は8世紀初頭に、南からのイスラーム勢力の到来を受けて滅亡します。以後、半島のほぼ全域がイスラームの支配下に組み込まれました。

かくしてイベリア半島のキリスト教徒はムスリムに支配されることとなりました。しかし、やがて彼らは半島の北部で自分たちの独立と国家建設のために立ち上がることになります。718年頃にはペラーヨという人物が蜂起し、彼を初代の王とするアストゥリアス王国が生まれました。

750年頃のイベリア半島の勢力図
750年頃のイベリア半島 (Wikimedia Commons)

アストゥリアス王国はその後、南に領土を拡大していきます。その王国は910年に分割相続を経て、最終的に934年にレオン王国として統合されました。さらに、そこから961年にカスティーリャ伯国が分離独立して誕生することになります。

その他、半島北部にはフランク王国の辺境区から発展したバルセローナ伯国、バスク人が建国したナバーラ王国、フランク王国から自立したアラゴン伯国など、複数のキリスト教国が誕生しました。

910年頃のイベリア半島の勢力図
910年頃のイベリア半島 (Public Domain)

しかし、これらの国々は南の後ウマイヤ朝と比べればいずれも小国であり、半島の大部分は依然としてイスラームによって支配されていました。

レコンキスタの歴史

しかし以前別の記事で述べたように、11世紀以降、半島におけるキリスト教の支配圏は目覚ましい拡大を見せます。1085年にはかつての西ゴートの都であったトレードが、1118年には北東部の都市サラゴーサが陥落します。この2つの征服によって、イベリア半島のキリスト教世界は2倍に広がることになりました。

12世紀半ばには独立したばかりのポルトガルによってリスボンが征服され、13世紀半ばには東部のバレンシア、南部のコルドバセビーリャが征服されます。その頃には南端のグラナダ周辺を除いて、半島のほぼ全域がキリスト教諸国の支配下に入るようになりました。1492年にはそのグラナダも陥落し、イベリア半島はキリスト教国が支配する地となります。

19世紀に入って近代歴史学が発展すると、中世におけるキリスト教国の征服活動は「レコンキスタ」と呼ばれるようになりました。そして、その起源はイスラームによって占拠された西ゴートの土地を「回復」しようとする国民的事業の開始と解釈されました。レコンキスタ (Re-conquista = 再=征服) という名前が、イスラームに取られた土地をキリスト教徒が取り返すという単線的な展開を示唆しています。

しかし、今日の歴史学では、そのような単純な解釈はもはや受け入れられていません。また、キリスト教とイスラーム教という異なる宗教の関係は、ややもすると対立構造で捉えられがちです。しかしながら、中世のイベリア半島の歴史がそのような宗教対立一辺倒でなかったことも今日の常識となっています。

征服活動は政治、宗教、経済、社会、文化などさまざまな要因が交じり合って展開されました。また、同じ宗教や文化にあっても利害関係の異なる諸集団の思惑が交錯するなど、その実態は非常に複雑なものでした。

その複雑な様相を理解することは簡単ではありません。しかし、その前提に立って物事を見ることは、今日の社会問題を考える上でも重要な視座を与えてくれます。今回は中世中期の拡大が始まった11世紀、英雄エル・シッドが活躍した時代のイベリア半島にテーマに、その錯綜した世界に分け入ってみることにしましょう。

キリスト教支配圏の拡大とレコンキスタの伸展

1031年、それまでアンダルス (イベリア半島のイスラーム世界) で栄華を誇っていた後ウマイヤ朝が内乱で崩壊します。それにより、アンダルスは30以上のターイファと呼ばれる群小イスラーム国家に分裂することになりました。この時代のイベリア半島は、その名を取ってターイファ諸国の時代、ないしはパリアスの時代と呼ばれます。

1031年頃のターイファ諸国
1031年頃のターイファ諸国 (Wikimedia Commons)

パリアスとは、キリスト教諸国がターイファ諸国に対して、臣従と引き換えに課した貢納金のことを指します。ターイファ各国の力は弱く、彼らは往時の後ウマイヤ朝のような影響力を持ってはいませんでした。

キリスト教諸国はその弱みにつけこみ、貢納関係を築くことで優位を確立しようとしました。特に、レオン王国とカスティーリャ伯国(のちに王国)の同君連合であるレオン=カスティーリャ王国がその政策を積極的に展開します。

1035年、巧みな婚姻政策によって半島のキリスト教諸国を統合したナバーラのサンチョ大王がこの世を去ります。彼の死後、その領土は息子たちによって分割相続されることになりました。

レコンキスタと王:フェルナンド1世

そのうちの1つ、カスティーリャ伯国は次男フェルナンドの手に渡ります。彼はその後兄弟間の内紛に勝利し、1037年にレオン王となり、同時にカスティーリャ王を名乗るようになります。レオン=カスティーリャ王フェルナンド1世(1037-1065年)の誕生です。

フェルナンド1世像
フェルナンド1世 (Public Domain)

彼は先に述べたとおり、ターイファ諸国を従属的な地位に貶めて、彼らを保護する代わりに、パリアスを徴収する関係を築きました。ターイファ諸国を単独で征服する軍事力も、再征服した土地を実行するだけの人的資源にも欠けていたのがその背景にあると考えられています。

臣従と貢納を軸にした彼の政策は、およそ「失地の回復」と言えるものではありませんでした。確かに、彼も周辺のターイファ諸国に対して武力行使を何度か行っています。例えば、彼は1057年にラメゴ1058年にはビゼウ、1064年にはコインブラを占領しています。しかし、それは臣従と貢納を取り付けるのが主な目的であり、領土の獲得や征服を狙ったものではありませんでした。

レコンキスタと王:アルフォンソ6世

フェルナンド1世の死後、王国は再び分割相続によって分裂し、兄弟間の争いが発生します。

その紛争に勝利し、再びレオン=カスティーリャ王国を統一したアルフォンソ6世(1065-1109年)も、しばらくは先王の政策を継承していました。しかし1080年代に入ると、彼は半島中部の大都市、トレードに向けて武力行使を始めるようになります。そしてついに、1085年にはその都市を陥落させてしまうのです。

アルフォンソ6世像
アルフォンソ6世 (Public Domain)

これに脅威を感じたセビーリャのターイファ国は、北アフリカの新興イスラーム国家に援助を求めました。これがベルベル系のムラービト朝です。

ムラービト朝はその要請に応じてジブラルタル海峡を渡り、1086年にレオン=カスティーリャ王国軍を大敗させます。その後、レオン=カスティーリャ王国は内乱に苦しめられながら、ムラービト朝からトレードを死守する戦いを展開するようになるのです。

こうして、11世紀のパリアスの時代は終わりを迎えます。半島は新たな時代へと突入していくことになるのです。

宗教を越えた連合と対立

もう1つ着目すべき点として、パリアスの時代においては、宗教が戦争の主要因ではなかったことが挙げられます。

パリアスを介した臣従は、裏を返せば保護と一体の関係にあります。実際、11世紀のイベリア半島では臣従しているターイファ国を守るために、キリスト教諸国で争う事例が多数見られます。

例えば、1063年、アラゴン王国のラミーロ1世はサラゴーサの町グラウスを占領しようとして攻撃を企てました。しかし、その際、彼は同じキリスト教のレオン=カスティーリャ王国の軍隊によって敗死することになります。レオン=カスティーリャ王国は貢納国サラゴーサの援助要請を受け、同国を守るためにアラゴン王を攻撃したのです。

その時の仕返しとして、後の1096年、アラゴンはフランスからの援軍を得て、サラゴーサとレオン=カスティーリャの同盟軍を破り、ウエスカを陥落させています。

また、1080年代前半にはアラゴン王国もターイファ国のレリダと同盟し、サラゴーサと戦っています。しかし、その同盟軍はサラゴーサが抱えていたキリスト教徒エル・シッドによって敗走させられています。

このエル・シッドのように、異宗教の君主に仕えるという事例も珍しくはありませんでした。彼はもともとレオン=カスティーリャ王アルフォンソ6世の家臣でしたが、王の逆鱗に触れて追放され、サラゴーサ王に傭兵隊長として仕える身となりました。その間、彼はキリスト教徒のアラゴン王、バルセローナ伯、ムスリムの君主レリダ王といった者たちと戦って勝利をおさめています。

彼は後にアルフォンソ6世と和解しますが、再び不和となり、独立の部隊長として活動するようになります。彼はデニアのターイファ国から貢納金を搾取し、デニアを保護するバルセローナ伯をまたもや打ち破っています。さらに、1094年には単独でバレンシアの町を占領するといった動きも見せています。

このように、宗教を越えた合従連衡があったことは、「レコンキスタ」とは何だったのかを考える上で非常に重要なことであると言えるのです。

宗教対立とレコンキスタ

一方、宗教的な動機によって引き起こされた戦争がないわけでもありません。ローマ教皇の呼びかけに応じてなされた、バルバストロ要塞都市の攻撃はその例です。

1063年、時の教皇アレクサンデル2世は、先述のアラゴン王ラミーロ1世がムスリムによって戦場で殺されるという悲劇を知るに及び、バルバストロ解放に参加するものはすべからく贖宥を授けるとヨーロッパ中に鼓吹しました。

この呼びかけに応じて、ギヨーム8世公配下のアキテーヌ人、シャロン伯ティボー指揮下のブルゴーニュ人、ロベール・クレスパン率いるノルマン人、ウルヘル伯アルメンゴール3世を頭とするカタルーニャ人などがはせ参じ、1064年にバルバストロを攻撃しました。

攻撃したキリスト教徒はバルバストロ明け渡しの条件としてムスリムの生命や財産の保証を約束しました。しかしその約束は守られず、彼らはムスリムの守備隊を虐殺し、婦女を凌辱し、男たちを奴隷にしたと伝えられています。

バルバストロ自体はその後すぐにムスリムによって奪還されますが、十字軍に先立つ「聖戦」として、宗教的敵意に発した戦争が半島に持ち込まれたことは、いかに半島の政治状況が錯綜していたかを物語っています。歴史家のジョセフ・オキャラハン氏は、このバルバストロをイベリア半島における十字軍の開始とさえ位置付けています。

しかし、現実の戦闘の多くが宗教的な敵対心とは無関係に遂行されたことは先に述べた通りです。また、上記のバルバストロの攻撃についても、ローマ教皇という半島外の勢力によって唱道されたものであることには留意すべきでしょう。

現実はキリスト教対イスラーム教といった単純な図式や、キリスト教が失地を回復するという単線的なものではありませんでした。半島内外のさまざまな利害関係者の思惑や利害が絡み合い、現実の政治はより錯綜した様相を呈していたのです。

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