古代メソポタミアのノートから見る教育とリテラシー (モノの記憶シリーズ 001)

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ニューヨークのメトロポリタン美術館。この美術館に、ある粘土製の玉のようなものが所蔵されています。ちょうど手のひらにおさまるくらいの大きさで、表面には何やら記号のようなものが刻まれています。

実はこれ、今から4,000年ほど前に使われていたノートです。刻まれているのはウラシュという神の名前。それが楔形文字で、古代のシュメル語とアッカド語で6回ずつ繰り返し書かれています。

これは、当時の学校に通っていた生徒が先生のお手本を真似て書いた習字の跡です。まさに古代の「あいうえお帳」のようなものと言えるかもしれません。

古代メソポタミアにおける読み書き能力

この粘土板が作られたのは紀元前2,000年から紀元前1,600年あたりのメソポタミア。古バビロニア王国と呼ばれる国が支配していた時代です。

当時のメソポタミアではアッカド語という言葉が日常語になりつつありました。それよりも昔に話されていたシュメル語は口語としては死語になっていき、書き言葉としてのみ使われるようになっていった時代です。[小林, 2010] [George, 2005]

そんな時代、シュメル語とアッカド語の両方で文字の読み書きができるというのは希少なスキルの1つでした。日常語で簡単な手紙を書いたり、会計の記録を付ける程度であれば一般の人々でも文字の読み書きができたと考えられていますが、高度な読み書きの能力は一部の人に限られていました。[Veldhuis, 2011]

そんな高度な読み書きの能力は書記と呼ばれる役人にとって必須といえるスキルでした。シュメル語の過去の資料を読み、自らもシュメル語で文書を残す。そんな出世の道を歩むうえで必須のスキルを学ぶために、都市の上層民は息子を学校に入れて読み書きや計算などのスキルを学ばせたのです。[小林, 2010]

この粘土板も、そんな学校に通っていた少年が文字の練習をしていたノートなのでしょう。

古代メソポタミアの学校教育

この時代、既に学校と言えるような施設がメソポタミアの都市には存在していました。それは「エドゥブバ (粘土板の家)」と呼ばれ、古くは王宮直属のものもありましたが、この頃には小規模で運営される私塾のようなものだったと考えられています。[George, 2005]

官僚機構が発達した古代のメソポタミアでは、書記と呼ばれる役人は必要不可欠な存在でした。学校では読み書きや計算、測量技術、法律や会計といった役人になるうえで必須のスキルを学びました。[小林, 2010][Postgate, 1992]

少年たちは1か月に24日間学校に通い、将来役人になるうえで必要なスキルの習得に励みました。ニップルという都市では、当時の学校で使われていた教育カリキュラムが残っています。それを見ると、いろんな言葉を繰り返し何度も書いて覚えるなど、なかなかの詰め込み教育だったようです。[小林, 2010] [Veldhuis, 2011]

この粘土版もその習字の勉強に使われたものと考えられています。先生がウラシュという名前を書き、生徒たちは葦のペンを使ってそれと同じように何度も何度も文字を書いて覚えたのです。当時の楔形文字は簡略化される傾向があったとはいえ、漢字のように膨大な種類が存在しました。その数は1,000字程度と言われています。[Veldhuis, 2011]

子どもたちは、それを1個1個書いて覚えていったのです。「あいうえお帳」ならぬ「漢字ドリル」のようなものだったのかもしれません。

古代メソポタミア文学に見られる教育もの

この時代の学校の様子を描いた文学作品が残っています。学校に通う生徒の1日を伝える『学校時代』はそのうちの1つです。『学校時代』は紀元前2000年頃に書かれた短い作品。作者は不明ですが、学校の先生であったと考えられています。作品は前後半に大きく分かれ、前半は生徒が学校における活動や経験を1人称で語るパートです。[小林, 2010]

「生徒よ、君はずいぶん前からどこへ行っているのですか」
「ぼくは学校へ通っています」
「君は学校で何をしているのですか」
「ぼくは粘土板を大声で読み、お弁当を食べました。ぼくは新しい粘土板を作り、習字を書き終えました。学校が終わった後で、ぼくが帰宅すると、お父さんが座っていました。ぼくはお父さんに今日習ったことを暗唱し、ぼくの粘土板を大声で読みました。お父さんは喜んでくれました。ぼくはお父さんの前に立ち、『のどが渇きました、水を下さい。おなかがすきました、パンを下さい。ぼくの足を洗って下さい、ベッドを出して下さい、ぼくは寝たいのです。朝にはぼくを (早く) 起こして下さい、遅刻できないのです、先生に鞭で叩かれます』(といいました。)
朝起きるとぼくはお母さんの前に行き、『ぼくのお弁当を下さい、ぼくは学校へ行きます』といいました。お母さんが2枚のパンをぼくにくださったので、ぼくはお母さんにあいさつをします。(中略)
ぼくは (校舎へ) 入って座り、そしてぼくの先生はぼくの粘土板を読みました。先生は『間違っている』といいました。そして先生はぼくを鞭で叩きました。(中略)
シュメル語の先生は『なぜ君はアッカド語をしゃべるのか』といいました。そして先生はぼくを鞭で叩きました。ぼくの先生は『君の文字は下手だ』といいました。そして先生はぼくを鞭で叩きました」[小林, 2010]

この生徒はそのあとも誤字を叱られ、シュメル語の発音が悪くアッカド語を話しているようだと叱られ、そのつど鞭で叩かれました。さらに、この後も生徒は許可なくしゃべったといっては鞭で叩かれ、校舎を出たといっては鞭で叩かれ、とにかく散々な一日だったとして描かれています。[小林, 2010]

そこで生徒は父に先生をお招きして、もてなしてほしいと頼み込みます。父は先生を家に招き、なつめやし酒を飲ませ、食事を出し、さらに新しい衣服などを贈って先生をもてなしました。もてなされた先生は手のひらを返したように、この生徒をほめるのです。[小林, 2010]

『学校時代』のお話はあくまで創作なので、細部が誇張されていると考えたほうがよいでしょう。『GTO』や『ドラゴン桜』を私たちがあくまでお話として楽しんでいるのと同様です。ただし、そこには当時の学校生活の様子が生き生きと描かれているのもまた事実と言えるのではないでしょうか。[Kohen & Kedar, 2011]

古代メソポタミアとリテラシー

長い間、研究者の間でもこの時代に読み書きができたのはごく限られた人々だけだったと考えられていました。すなわち、書記と呼ばれる読み書きの専門スキルを身に着けた人々です。 読み書きができることをたいそう誇らしげにしていた王の逸話や、楔形文字が数百以上の文字を覚えないといけないという点から、そのように考えられてきたのです。[小林, 2010] [Charpin, 2004] [Veldhuis, 2011]

しかし現在では、より多くの人々が当時読み書きができたのではないかという説が有力になってきました。各都市に派遣された総督や軍の司令官といった人々が自ら手紙を書いたり、読んだりしている例が見つかったのです。[Charpin, 2004]

文字の読み書きができるというのはゼロイチの問題ではなく、その度合いは人によってさまざまです。自分と両親の名前であれば分かる人。ものの名前と数が羅列された簡単な会計文書なら読み書きできる人。日常よく使う表現であれば読み書きできる人。語彙豊かに記された文学が読める人。専門的な議論が行われている学術書が読める人。[Veldhuis, 2011]

どれくらいの人々が、どのレベルまで読み書きできているのか、できるべきなのか。それは時代と社会によってさまざまです。今私たちが生きている社会とはその基準の違う社会があったこともまた事実と言えるのではないでしょうか。

終わりに:古代メソポタミアの遺産

古バビロニア王国は紀元前1595年頃、ヒッタイト王国によって滅亡します。しかし、その後も楔形文字は1世紀まで使われ続けました。支配者が変わっても、私塾のような形で運営されていた学校は生き残り、文字の読み書きを教育する文化はその後も長く続けられたのです。[Veldhuis, 2011]

モノを通して、古い昔の人々が生きていた証をそこに見ることができます。今から4,000年ほど前に使われた粘土板のノートから見えてきたのは、文字の読み書きをめぐる当時の教育の様子や、現代とは違ったかたちで読み書きが位置付けられていた社会の姿だったのです。

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