以前の記事で、現在のスコットランドに住んでいたピクト人がどのような人々だったのかを簡単に述べた。本記事はそれに関連して、ピクト人どういう言葉を話していたのかを解説していきたいと思う。つまり、ピクト人が話していた言葉、ピクト語とはどのようなものだったか。それが本記事のというテーマだ。
ピクト人の言葉の証言
8世紀初頭に生きたイングランドの聖職者ベーダは、自著『イングランド人の教会史』において以下のように述べている。
現在ブリタンニアには、神の法が記されているモーセ五書の数と同じく、五つの部族の言語すなわちイングランド人・ブリトン人・スコット人・ピクト人の言語、それに聖書研究にはラテン語をもっており、これらすべての言語によってブリタニアは全く同じ叡智、すなわち崇高な真実と権威についての知識を得ている*1。
ベーダは当時のブリテン島に住んでいた人々を言語によって区分した*2。その中のひとつがピクト人であり、固有の言語を持っていたと彼は述べている。では、このピクト人の言語とは、どういうものだったのだろうか。
ピクト語の手がかり
残念ながら、ピクト人の言語に関する史料はほぼ現存していない。彼らの言語がどのようなものであったか、それを示すテクストが一切残っていないためだ。現存するピクト語は、人名や地名といった固有名詞に限られる*3。
例えば人名であれば、9世紀半ばから後半にかけて作成されたとされる王の名簿に見られる。Onuist, Unust, Bridei, Drest といったものだ*4。また、地名としては、現在 アバーダー (Aberdour) と呼ばれている地名の dour の部分に、ピクト人の言葉 *duvr の名残があると考えられている*5。
他にも事例は存在するものの、こういったものが、現存するピクト語の唯一の記録となっている。
ピクト語はケルト語の一部か
上で述べた通り、ベーダはピクト人が固有の言語を持っていると述べた。かつては、その史料の少なさゆえに、ピクト語は非ケルト語系、それだけでなく非インド=ヨーロッパ語族の言葉でないかと考えられたこともあった。
しかしながら、現在では、ピクト語はケルト語派のひとつであるPケルト語に属していると考えられている。例えば、先ほどのアバーダー (Aberdour) の後半部分の *duvr は、ウェールズ語の dwfr (水) に対応するとされている*6。
また、人名で言うと、Onuist や Unust はアイルランド語のオイングス (Óengus)に、Bridei はブルデ (Bruide)に、Drest はドルスト (Drust) という人名にそれぞれ対応しているとされている*7。
歴史的経緯から見れば、ピクト語はシンプルにブリトン人の言葉の北の方言であったというのが現在の解釈だ*8。
ローマによる支配とピクト語の関係
別の記事でも述べた通り、ピクト人はローマ人の支配に入らなかった人々とされている。これが、もともとは類似のブリトン語であったものが、別々の言葉に分かれていくひとつの要因になったと考えられている。
つまり、ローマの支配に服した南方は在地の言葉とラテン語が交じり合い、そのバイリンガルな社会の中で言葉が変化していった。一方、ローマの支配に服さず、ラテン語の影響が比較的小さかったピクト人においては、言語も別の発展を遂げていったという訳だ*9。
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レファレンス
- G. Markus, Conceiving a Nation: Scotland to AD 900, Edinburgh, 2017.
- トマス・チャールズ=エドワーズ編(常見信代監訳)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史2 ポスト・ローマ』慶応義塾大学出版会, 2010年.
- ベーダ(高橋博訳)『ベーダ英国民教会史』講談社, 2008年.
*2:ちなみに、ここで言う「スコット人」とは現在のスコットランドではなく、アイルランド起源の人々を指す。
*3:チャールズ=エドワーズ編, 2010, 354-5; Marcus, 2017, 2章
*5:Marcus, 2017, 2章 ちなみに、アバーダーとは「河口の水の流れ」という意味。