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ファレーズ協定 (Treaty of Falaise)

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概要:1174年12月8日、イングランド王ヘンリ二世とスコットランド王ウィリアム一世の間で結ばれた協定。スコットランドに対して、イングランドの封建的主従関係を認めさせたもの。

ファレーズ協定の前史:反乱

1173-1174年にかけて、イングランドは深刻な反乱に見舞われた。反乱の指導者は王ヘンリ二世の長子、ヘンリ小王である。その原因は、父であるヘンリ二世が、末子のジョンにフランス各地の城や所領を与える決定を下したことによる。

当時のイングランドはアンジュー朝の支配下にあり、その王はイングランドだけでなく、アキテーヌ、ポワトゥー、アンジュー、ノルマンディなど、フランスの各地に広大な所領を有していた。その中で、ヘンリ小王はフランスのアンジュー地方の相続人に定められていた。それにもかかわらず、父が下した決定は、彼の目には自分の権利だと感じていたものへの侵害だと映ったのだ。

ヘンリ小王に呼応して、イングランドの多くの諸侯が離反した。ノーフォーク伯ヒュー・バゴット他、四名の伯が王に反旗を翻したことが分かっている。それに加え、スコットランド王ウィリアム一世(獅子王)も反乱に呼応し、1173年8月、イングランド北部に侵攻を開始した。

この侵攻自体は大した成果をもたらさなかったようで、逆に行政長官リチャード・ド・ルーシーによる反撃を受けている。しかし翌年5月、ウィリアムの弟であるデイヴィッドがミッドランド地方のハンティンドン伯領を兄から継承すると、彼は小王の側に立って反乱を主導し、ミッドランド地方で戦果を挙げていく。

それに同調する形で、同年ウィリアムは再びノーサンバランドに侵攻を開始した。ウィリアムはリデル、ブロフ、アップルビーといった町を奪取するものの、7月13日、アニックの地で少数の従者と行動を共にしていたところ、親ヘンリ二世派の者によって捕らえられてしまう。この後ヘンリ二世はハンティンドンとノーサンプトンにあるデイヴィッドの城を奪取し、イングランド内での内乱を終結させた。

ファレーズ協定:戦後処理

さて、勝利したヘンリ二世にとって問題となるのは、反乱に加担した者たちの処遇についてである。その中には当然、捕らえられたスコットランド王の扱いも含まれていた。

1174年12月8日、両者はひとつの協定を結ぶことになる。その協定文書が書かれた地名をとってファレーズ協定と呼ばれたこの取り決めは、スコットランド王にとって屈辱的とも言える内容であった。その概要は、同協定の前文にはっきりと表現されている。

スコット人の王ウィリアムは、いかなるものに対しても、スコットランドと彼の他のすべての土地に関して、その [イングランドの] 主君=王の一身専属的家臣となった。彼は、彼 [ヘンリ二世] の他の家臣たちが慣習として行っているのと同じやり方で、一身専属的主君として忠誠を誓った。

同協定において、ウィリアム王はスコットランドと彼が所有するほかの土地に関して、ヘンリ二世に一身的専属臣従礼を行うことが定められた。一身的専属臣従礼とは、封建家臣が主君に行った臣従の儀礼のひとつであり、他のいかなる者に対する臣従礼よりも最優先されるものを指す。当時、ひとりの人間が複数の主君を持つことは決して珍しいことではなかったが、そのいかなる君臣関係にも勝るものとして、ヘンリ二世はウィリアムに臣従を要求したのである。スコットランド中世史の大家、G.W.S.バロウの言葉を借りるならば、この協定によってスコットランド王権は「封建的な意味でイングランド王の支配に従う」ことになったのだ。

この協定は、王個人に関するものではなく、彼の家臣もすべて、聖俗問わずヘンリ二世に臣従する旨を規定している。この協定は翌1175年8月10日、ヨークの地で多くのスコットランドの貴顕たちが居並ぶ中で追認された。イングランド王の文書において、スコットランドは王国(レグヌム)ではなく単に土地(テラ)とされ、ウィリアムは王(レクス)の称号を引き続き使うことを許されたものの、それはヘンリ二世の主君=王(ドミヌス・レクス)と比べて明らかに序列化されたものであった。スコットランド王は、イングランド王を宗主として認めさせられたのである。

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