史料紹介 #5『随書』倭国伝

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遣隋使

遣隋使と言えば、おそらく中学の歴史教科書でも登場する古代日本史の有名な出来事でしょう。とくに、607年に小野妹子が派遣された第2回の遣隋使は、多く資料集でも掲載されている出来事です。史料に見えるその様子を引用してみましょう。

大業三年、その王多利思比狐 (タリシヒコ)、使を遣わして朝貢す。使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。(『随書』倭国伝)

特に、推古天皇から隋の煬帝に宛てられた以下の書面を読み、自分以外の人間が「天子」を名乗ることに煬帝が立腹したという逸話は有名でしょう。

その国書にいわく、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや、云云」と。帝、これを覧て悦ばず、鴻臚卿 (コウロケイ) にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ」と。(『随書』倭国伝)

『随書』倭国伝

この出来事が記されている史料が『随書』倭国伝です。『随書』倭国伝とは『随書』巻81の東夷伝、倭国の条をさします。『随書』は隋王朝の正史であり、その撰者は唐の時代の魏徴 (580-643年) です。

『随書』には上記の607年の遣隋使の他にも、600年に行われた第1回遣隋使についての記述もみえます。

開皇二十年、倭王あり。姓は阿毎 (アメ)、字は多利思比狐 (タリシヒコ)、阿輩難弥 (オホキミ、ないしはアメキミ) と号す。使を遣わして闕に詣る。上、所司をしてその風俗を訪わしむ。使者言う、「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、いう我が弟に委ねんと」と。高祖いわく、「これ大いに義理なし」と。ここにおいて訓えてこれを改めしむ。(『随書』倭国伝)

このように、隋王朝時代の日中関係史をひも解く上で『随書』倭国伝は貴重な情報を伝えてくれています。

同書は前述した607年の遣隋使の記述の後、翌年に煬帝が裵清 (裵世清) を倭国に遣わせた記述が見えます。隋側の記録として、彼らが当時の日中関係をどのように捉えていたのかを垣間見る上で、『随書』倭国伝は面白い書と言えるでしょう。

興味のある方は、ぜひ一読してみてください。