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百年戦争とスコットランド II-V:束の間の平和

ロバート一世が眠るダンファームリン修道院 (Wikimedia Commons)
ロバート一世が眠るダンファームリン修道院 (Wikimedia Commons)

戦争の最終局面

イングランドの政情不安を絶好の機会と見たブルースは一気に攻勢に出るようになる。1326年の末、ブルースの甥であるマー伯ドナルドがスコットランドに帰国した。彼はイングランドで育ちエドワード二世に忠臣として仕えた人物であり、帰国の直前にはブリストル城の防衛にも参加していた。帰国後、おそらく彼は伯父にエドワード救出の助けを求めたと思われる。ブルースは表面上それに同意しながらも、裏では自身の政治目的を果たさんとしていた。

ブルースの戦争、再開す

『ラナーコスト年代記』は1327年の2月1日、新王エドワード三世の戴冠式が執り行われるまさにその日に、スコットランド側がイングランド北部のノラム城を攻撃したことを伝えている。

さらにその後の復活祭にブルースは自らアイルランド北部のアルスター地方に上陸し、前年に伯領を継承したばかりで年端も行かない甥ウィリアム・デ・バーグの後見役として介入しようとした。そればかりでなく、5月13日までアイルランドではエドワード三世の王権が宣言されていなかった状況に乗じ、島のゲール系、アングロ=ノルマン系双方のの領主に新政権への敵対を促そうとしていた。

イングランド側もその仕返しとしてエドワード三世自ら7月に遠征を開始し、北部を蹂躙するマリ伯やダグラスの軽騎兵隊を追跡し戦いを挑んだが、大した戦果を収めることなく終わった。この遠征に司祭として従軍したリエージュの年代記作者のジャン・ル・ベルが14世紀半ばにものした年代記は、ダラム近郊のスタナップ・パークで野営するイングランド軍にスコットランド軍の指揮官ジェームズ・ダグラスが夜襲をかけ、王の天幕の目前にまで迫った様を記録している。両軍の間では夜襲や小競り合い以上の衝突はなく、食糧不足にも悩まされる中、8月には両者撤退という形で終結した。

若き王にとっては屈辱的な幕引きだったのだろう。同時代に書かれた『ラナーコスト年代記』や『スカラクロニカ』といった複数の年代記は、撤退に際してエドワード三世が撤退に際して涙した様子を記している。

エディンバラ=ノーサンプトン条約

困窮するイザベラ=モーティマー政権

まだ王国内で支持基盤が固まっていないイザベラ=モーティマー政権にとって、スコットランドとの戦争はリスクが大きかった。スコットランド側からの度重なる侵攻に対して王国北部は荒廃し、先の失敗に終わった遠征の戦費負担で財政的にも困窮していた。そのうえ、早くも9月には再びブルースの軍勢がノーサンバランドに侵攻している。また、アイルランドやウェールズでは先王エドワードに与した反乱の危険があった。

1327年の9月、リンカンで開かれていた議会で同政権は平和の樹立に舵を切るようになる。10月には6点からなる和平の条件がブルース側によって提示され、和平交渉が開始された。

和平条約、なる

それらの条件は概ね合意され、最終的に翌1328年3月から5月にかけてエディンバラ=ノーサンプトン条約に結実した。ブルースがエドワードに2万ポンドの支払いを行う代わりに、イングランド王はスコットランドに対する領主権を放棄しブルース自身の王位とその相続を認めた。彼の支配圏はアレグザンダー三世(ここでもジョン王の治世はブルースによって否定されている)が支配していた全地域に及ぶが明示され、教皇による破門と聖務停止の解除に向けてイングランド側が協力する旨が定められた。

さらに、和平をより確かなものとするため、4年前に生まれた待望の息子デイヴィッドとエドワード三世の妹ジョアンとの婚姻が取り決められた。

巨星堕つ

3128年11月5日には教皇ヨハネス二二世よって罪の許しが与えられ、翌1329年の6月7日、ロバート一世はこの世を去った。享年54歳だった。晩年の彼は重い病に悩まされており、その病によって亡くなったと考えられている。

若干5歳ではあったものの、王子デイヴィッドへの王位継承はスムーズに行われ、重臣のマリ伯トマス・ランドルフが摂政として国政を司ることになった。

王の心臓

彼の死後、その心臓は生前の意思に従い、銀の箱に入れられて「神の敵」との戦いに持ち運ばれた。王の忠臣、ジェームズ・ダグラスはそれを銀の箱に入れて首から飾り、イベリア半島でのイスラム教徒との戦いに携行した。1330年8月25日、テバの戦いにて彼は戦死してしまうが、亡き王の心臓は同行した騎士、ウィリアム・キースによってダグラスの遺骨とともに祖国に持ち帰られた。王の遺体は歴代の王が眠るダンファームリン大修道院に葬られ、その心臓は王の遺言通り、スコットランド南部のメルローズ大修道院に埋葬されたと考えられている。

束の間の平和

この平和は戦争で荒廃したイングランド北部の地域共同体にとっては朗報だったが、南部を中心とした政治的エリート層や年代記作者からは厳しい目で見られた。

エドワード三世自身はその条約締結の場に出席せず、それを「恥さらしの平和」と捉えていた。ロンドン市民は、エドワード一世が1296年に持ち去ったスクーンの即位の石の返還を拒否した。

次世代に持ち越された難題

そして何より、まだ当時のイングランドには、婚姻や相続、戦争による褒賞、加えてロバート一世によって所領没収などによってスコットランドにおける土地保有権を主張する多くの「廃嫡者たち」の存在が残っていた。エディンバラ=ノーサンプトン条約では一部譲歩が見られたものの、原則としてはイングランド、スコットランド両王国にまたがる土地保有を禁止する条項が含まれていたために、そのような「廃嫡者たち」にとって事態はより厄介なものとなっていた。

そのような反感は、1330年にエドワード三世が実権を握った後にますます表面化していくこととなる。結果、この平和はわずか5年で破られてしまう。その時から実に1502年に至るまで、イングランドとスコットランドは公式には戦争状態にあり続けるのだった。

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