ブルースの王位は未だ解決せず
1323年の休戦では平和樹立への歩み寄りが見られたものの、いまだブルースの王位に関する問題は未解決のままだった。事実、この休戦においてブルース側の文書は彼自身を「スコットランド王ロバート」と呼んでいる一方、エドワード二世の文書ではただ「ロバート・ブルース殿」とのみ書かれていることからも、エドワード二世が依然としてブルースの王位を認めようとはしていなかったっことが分かる。
加えて、依然としてブルースは教皇によって破門され、スコットランドには聖務停止令が下ったままであり、エドワードはその圧力を強化せんとしばしば教皇庁に対してロビー活動を展開した。教皇は彼の主張に理解を示したものの、一方でエドワード二世に宛てた勅書において、やや謝罪めいた口調で、平和の樹立のためであれば将来的にブルースの王位を認める意向を見せている。教皇にとっては、ブルースの王位を認めることでそれまで「非常に大きな代償を払いながらも多くの妨げを受けている」和平交渉が成立するのであればそれに勝るものはなかった。
しかしながらエドワードはそれでもブルースの王位を認める気はなく、さらに強気の姿勢に出る。1324年7月、王は当時故郷のピカルディに隠遁していた亡きジョン王の息子で、齢40を越えたエドワード・ベイリオルをイングランドに呼び寄せたのだ。このアクション自体はさほど直接的な影響を持たなかったものの、おそらくこの時にベイリオルがイングランド国内の「廃嫡者たち」と接触したことが、そのおよそ10年後の出来事に繋がっていくこととなる。
ふたつの大きな事件
上記のように1320年代半ばの時点では両者の主張は平行線をたどっていたものの、その5年後には両王国の間で平和条約が結ばれ、イングランド王は正式にロバート・ブルースを「スコット人の王」として認めることになる。西ヨーロッパを取り巻くふたつの大きな政治的事件がこの重要な方針転換をもたらすことになった。それはいったいどのような事件だったのか。これらからそれらを見ていくとしよう。
サン・サルドス戦争
ひとつ目の事件は、1323年にガスコーニュをめぐって勃発したイングランドとフランスの戦争(サン・サルドス戦争)だ。
臣従礼の問題
1314年にフランス王フィリップ四世が亡くなった後、息子のルイ一〇世(位:1314~16年)が王位を継承したが、彼はほどなくして死亡、その息子ジャンも生後5日でこの世を去った。その後王位はルイの弟であるフィリップ五世(位:1316~22年)に、彼の死後はさらにその弟シャルル四世(位:1322~28年)に受け継がれた。
この間も、代々のフランス王とエドワード二世の間にはアキテーヌに関する臣従礼の問題が横たわっていた。即位後、新王シャルルもエドワードに臣従礼を求めたが、彼は召喚状の書式に難色を示して臣従礼を引き延ばし続けており、それに痺れを切らしたシャルルが1323年10月にフランス西部のオレロン島を占拠、武力でエドワードを威圧する事態にまで発展していた。
アジュネ地方の紛争
そんな中、アジュネ地方で発生したサン・サルドス修道院(フランス王権と繋がりを持つ)とモンペザの領主(エドワード二世の封臣)の在地紛争が引き金となり、両王家は再び戦争状態に陥る。発端は、サン・サルドス修道院の親にあたる別の修道院が建設したバスティード(都市)が自身の利権侵害にあたると見たモンペザの領主が、その都市を攻撃・放火したというものだった。
このような地域の紛争は当時決して珍しくはなかったが、たまたまその数日前にモンペザの領主がアキテーヌにおけるエドワード二世の代官に忠誠を誓っていたことから、フランス王側はこの事件を両者の共謀と判断、翌1324年6月に戦争を開始し、アキテーヌ公領の没収を宣言するに至る。エドワード二世は派兵を決めるも、準備を整えている間にアジュネとサントンジュとの大部分を占領されてしまう。その後実質的な戦闘はほとんど行われず、王妃イザベラ(フランス王シャルル四世の妹)がエドワードの名代としてフランス王のもとに派遣され、和平交渉に当たることとなった。
1325年8月には王太子エドワード(後のエドワード三世)がアキテーヌ公として臣従礼を行うことで、一度和平合意がまとまった。1326年の6月から8月にかけてアキテーヌ公領内で戦争が再発したものの、その後1327年2月には休戦、3月には和平合意がなされて戦争は終結に至った。
コルベイユ条約
スコットランドの視点では、この戦争の中ごろに締結されたフランス王とスコットランド王の軍事同盟が大きな意味を持った。
1326年4月26日、パリからほど近いコルベイユの地にて、シャルル四世とロバート一世の間で相互軍事援助の「再確認」がなされた。この同盟ではイングランドとフランスの間で戦争が勃発した際、スコットランドがイングランドとの和平や休戦を破棄してフランスを軍事支援する旨が定められた。一方、フランス側の義務はイングランドとスコットランドの戦争に際して、求められた場合において「支援と助言」を提供するに留められた。
相互軍事援助の「再確認」というのは、1295年にジョン王とフィリップ四世の間で結ばれたパリ条約の延長であることを意識していると思われる。両者の交渉がどのように行われたかの仔細は明らかでないが、ブルースにとってフランスとイングランドの戦争は後者との交渉を有利に進める上で有力なカードとなった。実際、1324年以降イングランドや教皇側の史料は、当時ブルースがイングランド=フランス間の戦争に乗じて侵略してくるのではないかという危惧を表明している。
それに比して、シャルル四世側の意図はあまり明確ではない。彼には1325年8月の和平合意を最終確定させる意志があったかもしれないが、一部の土地をイングランド王=アキテーヌ公に返還せず占領を続けるなど未解決の問題を残したままであった。スコットランドとの攻守同盟には、そんな状況下でエドワード二世をけん制する意図があったのかもしれない。
エドワード二世の廃位
そしてもうひとつの事件がエドワード二世を廃位に追い込んだクーデターとその後の展開だ。こちらの方がより直接的に歴史の流れを変えたと言える。
王妃イザベラの計画
前述のように、夫エドワード二世の名代として和平交渉に臨んだ王妃イザベラは8月の和平合意の後も王太子エドワードとともにフランスに滞在を続けた。その背景には当時エドワード二世の寵臣として権勢を振るっていたディスペンサー父子との政治的な対立があった。
エドワード二世は再三両者に帰国を促すも、王妃はディスペンサー二世の攻撃を恐れてその要求を受け容れようとはしなかった。そればかりか、彼女は1321年から22年にかけてのにイングランド国内の内乱で捕らえられ、その後国外逃亡した騎士ロジャー・モーティマーに接近し、結託をはかった。後の歴史家たちは両者の愛人関係が結託の背景ににあったと考えているものの、近年ではより批判的に、両者の目的はディスペンサー二世の排除というプラグマティックなものに過ぎないと考える研究者もいる。
いずれにせよ、彼女たちのもとはリッチモンド伯ジョン・オヴ・ブリタニー、エドワード二世の異母兄弟にあたるケント伯エドマンド・オヴ・ウッドストック、ノリッジ司教ウィリアム・エアマインなど、イングランドから亡命した貴顕が次々とはせ参じた。それだけでなく、8月には兄シャルル四世の提案もあって、彼女は夫エドワード二世の意に反してエノー伯の娘フィリッパと王太子エドワードの婚姻を取り決め、伯の支援を獲得した(エドワード二世は対フランスの同盟者を増やすためにカスティーリャ王家との婚姻を計画していた)。
王妃イザベラの上陸
イザベラの一行は1326年の9月24日、イングランド南東部のオーウェル港へ上陸する。彼女たちはレスター伯ヘンリ・オヴ・ランカスターやダブリン大司教を始めとした多くの聖俗貴顕を味方につけながら西進を続けた。一方エドワード二世とディスペンサー父子はウェールズからさらにその先に逃げ延びようとするものの、嵐に会って引き戻されてしまう。
10月26日にはブリストルを守っていたディスペンサー一世が降伏し、翌日裁判によって即刻処刑された。11月16日にはエドワード二世とディスペンサー二世の身柄が在地のウェールズ人によって捕らえられ、その身はイザベラに加わったレスター伯に引き渡された。エドワードは王の印璽を奪い去られ、王太子が摂政として国を統治することになった。ディスペンサー二世は裁判にかけられ、彼も父と同様に処刑された。
エドワード二世、廃位される
翌1327年の1月にイングランドでは議会が召集され、王の生前退位というノルマン・コンクェスト以来いまだかつてない題が議論された。その月の半ばには退位の条項がまとまり、そこではエドワード二世の国内外での数々な失策が列挙され、彼が支配者として不適格であるという結論が下された。
議会の参加者にはエドワード二世に否定的でない者も含まれており、全員が彼の退位を望んでいたわけではなかったとされている。しかしながら、新政権で指導的な立場にいた者たちと彼らの従者、ならびにイザベラの呼びかけに呼応して放棄したロンドン市民の圧力のもとで王の廃位が決められたのだった。
同月20日、議会への出席を拒否し続ける王のもとに聖俗貴顕が赴き、彼に退位を迫った。 翌21日、年代記作家ジョフリ・ル・ベイカーが述べるところによれば、エドワード二世は「涙を流し嘆息しながら」その要求を受け入れたと言われている。2月1日、ウェストミンスター大修道院にてまだ15歳の王太子エドワードの戴冠式が執り行われた。
レファレンス
記事
書籍
- 城戸毅『百年戦争―中世末期の英仏関係―』(刀水書房, 二〇一〇年).
- ラルフ・グリフィス編(北野かほる監訳)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史五 一四・一五世紀』(慶応義塾大学出版会, 二〇〇九年).
- フィリップ・コンタミーヌ(坂巻昭二訳)『百年戦争』(白水社, 二〇〇三年).
- Allmand, C. The Hundred Years War: England and France at War c. 1300-c. 1450. Cambridge, 1988.
- Barrow, G. W. S. Robert Bruce. 4th ed. Edinburgh, 2005.
- Beam, A. The Balliol Dynasty 1210-1364. Edinburgh, 2008.
- Brown, M. The Wars of Scotland. Edinburgh, 2004.
- Curry, A. The Hundred Years War. 2nd ed. London, 2003.
- Grant, A. Independence and Nationhood: Scotland 1306-1469. Edinburgh, 1984.
- King, A., and C. Etty. England and Scotland, 1286-1603. London, 2016.
- Penman, M. Robert the Bruce. Edinburgh, 2014.
- Phillips, S. Edward II. New Haven, 2010.
- Prestwich, M. Plantagenet England 1225-1360. Oxford, 2005.
- Vale, M. The Origins of the Hundred Years War: The Angevin Legacy 1250–1340. Oxford, 1996.