YuRAN-HIKO

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百年戦争とスコットランド III-II:ダップリン・ムーアの戦い

ダップリン・ムーアの戦いを描いた19世紀の図像 (Public Domain)
ダップリン・ムーアの戦いを描いた19世紀の図像 (Public Domain)

廃嫡者たち、イングランドを発つ

ベイリオルと廃嫡者たちが起こした戦争は電撃的なスピードで進展し、緒戦は彼らの驚くべき勝利で始まった。イングランド側の年代記を参照すると、おそらく1332年7月31日、エドワード・ベイリオルはキングストン・アポン・ハル(ヨークシャ―)を出港し(『モー年代記』)、8月6日にスコットランドのキングホーン(ファイフ地方南部の港町)に上陸した(『ラナーコスト年代記』など)。

エドワード三世の態度

当時エドワード三世はスコットランドとの平和を重視し、表向きではスコットランドに進軍することを彼らに許可していなかったが、裏は密かにベイリオルや廃嫡者たちの企てを黙認していた可能性が高い。

第一に、年代記が伝える「王は陸路での進軍を禁止していたため、ベイリオルらは海路でスコットランドに向かった」という禁止の仕方が不自然である。第二に、王は廃嫡者たちが軍資金を調達するための財産の処分を承認している。第三に、王はスコットランドとの戦争に備えるようイングランド北部諸地域に指示を出している。

これらを総合すると、エドワード三世はベイリオルたちの軍事行動を直接的には支援していなかったと言えども、決して1328年の「恥ずべき平和」に甘んじていたわけではないことが伺える。

廃嫡者たち、スコットランドに上陸する

キングホーンに上陸した直後、ベイリオル軍は現地を守っていたファイフ伯麾下の騎士アリグザンダ―・セトンと交戦し、彼を敗死させた。

そこから先は抵抗を受けることなく、同月の7日ないしは8日、ベイリオルはダンファームリン修道院(ファイフ地方西部)に立ち寄って物資を調達することに成功した。そこで彼らは、スコットランド人がその修道院から北に40キロメートルほど行ったところにあるガスク(パース市の南西)の地に軍を集めていることを知る。彼らは軍を北に進め、同月10日にフォーテヴィオット(パース市近郊)の地で陣を張った。

ベイリオルの兵力

ベイリオル軍の数は年代記によって400人から2,500人と大きな幅がある。年代記の数字をそのまま扱うことには注意を要するが、スコットランド、イングランドいずれの記録も彼らが「少数」であり、歩兵や弓兵を主力とした傭兵部隊だったことは一致している。

従軍した貴顕は前述のヘンリ・ボーモント、アソル伯デイヴィッド、アンガス伯ギルバート(両伯位はあくまでイングランド側から見た場合で、スコットランド政府はその主張を認めていたわけではない)、ラルフ・スタッフォード、ヘンリ・フェラーズとその兄弟、アレグザンダー・モウブレー、ジョン・モウブレー、トマス・ユートレッド、ニコラス・デ・ラ・ビーチ、リチャード・トールボット、ウォルター・カミン、ロバート・ウィンチェスター、フルク・フィッツワリン、ジョン・フェルトンといった廃嫡者たちであった。

親ブルース派の動向

一方の親ブルース派のスコットランド人たちは7月20日に摂政マリ伯が没した後、パース市に集まって次の摂政選出に関する議論を行っていた。ちょうどその頃、エドワード・ベイリオルがスコットランドに向けて進軍しているとの報が彼らのもとに届いたと考えられる。

摂政マー伯ドナルド

8月2日、彼らは前王ロバートの甥であるマー伯ドナルドを次の摂政として選出した。マー伯は1326年までイングランドで育った人物であり、必ずしもロバート一世の戦いの中で重要な役割を担っていた人物ではない。しかしながら王と血縁が近く、ベイリオルとも過去に接触があったことからその交渉を進める上で適任と判断された可能性はある。

とは言うものの、選出の過程では「多くの論争や様々な対立」(『ゲスタ・アナ―リア』ほか)があり、おそらく親ブルース派の貴顕たちも決して一枚岩ではなかったことが窺える。ベイリオルが初戦に勝利した後、特に抵抗も受けずにダンファームリン修道院、フォーテヴィオットと軍を進めることができたのもそれらの地域において現政権を好ましく思っていなかった者たちの存在を仄めかしているのかもしれない。

一方でマー伯とマーチ伯(『スコティクロニコン』によれば、その時スコットランド南部を管轄していたとされる)が「大軍」をすぐに動員できたことを鑑みると、彼らもある程度は事前にベイリオルや廃嫡者たちによる侵攻を予期していたとしても不自然ではない。その数は3万人とも4万人とも言われるが、これは明らかに年代記の誇張と考えられる。

ダップリン・ムーアの戦い関係地図 (Wikimedia Commons)
ダップリン・ムーアの戦い関係地図 (Wikimedia Commons)

ダップリン・ムーアの戦い

8月11日、両軍はパース市近郊のダップリン・ムーアにて、その地を流れるアーン川を跨いで対峙した。戦闘はその夜川を渡って地形上の有利を確保できたベイリオル側が、翌日圧勝する形で終結した。

「大軍」を擁したスコットランド側は総司令官のマー伯を始め、マリ伯(前摂政の嫡男)、メンテイス伯(ロバート一世から伯領だけでなく旧フェラーズ家やモウブレー家の所領も獲得)、前王ロバート一世の私生児ロバート・ブルース、アレグザンダー・フレイザー(ロバート一世晩年の侍従長官で王の妹を妻として迎えた)が戦死し、ファイフ伯が捕らえられるという大惨事となった。

いくつかの年代記は、少数のベイリオル軍によるこの勝利を神の意思としてとらえている。おそらく、多くの同時代人の目にはそのように映っていたに違いない。

一方でベイリオルが川を渡る際、スコットランド人でタリバーディンの領主であったアンドリュー・マリという人物のサポートがあったことは着目に値する(タリバーディンは戦場のダップリン・ムーアから南西20キロメートルほどにある地域)。これもまた、スコットランドの政治共同体おける内部対立や抗争の可能性を示唆しているだろう。

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