百年戦争とスコットランド III-III:即位と一進一退と ―1332年の戦局―

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エドワード・ベイリオルの印章 (Public Domain)
スコットランド王エドワード・ベイリオルの印章 (Public Domain)

エドワード・ベイリオルの即位

パース入市と包囲

ダップリン・ムーアの戦いの後、エドワード・ベイリオルはパースに入市し防備を固めた。

直後にマーチ伯の軍勢が町を包囲し、ジャン・クラブ率いるベリック市の船団がキングホーンに停泊するイングランド船を攻撃したものの、クラブの船団が敗北し、またユースタス・マクスウェル率いるギャロウェイ人の軍勢が「自らの主君」と仰ぐベイリオルを支援し後方から挟撃せんとするのを知るや、彼らは包囲を解いて撤退した(ギャロウェイはスコットランド南西部の地方)。

ギャロウェイはエドワードの祖母デルヴォルギッラの時代からベイリオルの所領があった地であり、父のジョン王の治世においても同家に忠誠を誓う者が多かった。

戴冠式

ダップリン・ムーアでの勝利から6週間のうちに、多くのスコットランド人がエドワード・ベイリオルの軍門に入った。

スコットランド側の年代記一致して、ベイリオルがスコットランド王に即位した9月24日、式が挙行されたスクーンにはスコットランド中部のファイフ、フォルシーフ、ストラサーン、ゴーリーの聖俗貴顕たちが参列したと述べる(ファイフ、フォルシーフはフォース湾北の半島地域、ストラサーンはその西部、ゴーリーはその北部地域)。『ラナーコスト年代記』はより詳細にダンケルド司教と5名の大修道院長、先の戦いで捕虜となったファイフ伯、ならびにファイフ地方の13人の騎士の名を挙げている。

即位式ではダンケルド司教とファイフ伯が中心的な役割を担った。デイヴィッド二世について最新の研究を上梓したデイヴィッド・ペンマン氏は、デイヴィッド二世の戴冠式にファイフ伯とストラサーン伯が出席を拒否した可能性を指摘している。後者のマリーズ五世は1329年に伯位を継承したばかりの人物であり、その父マリーズ四世は一貫してブルースを支持する立場を取っていたものの、彼自身はベイリオル側に与することを選んだのだった。

年代記のなかには、ダップリン・ムーアで少人数のベイリオル軍が勝利したことを神の意思と解釈しているものもある。同時代人のなかにも、そのように解釈してベイリオル側に味方したものもいたのかもしれない。

一進一退

ロクスバラでの攻防

スコットランド王となったベイリオルはその後南進してギャロウエィに向かい、そこで地域の領主たちの支持を取り付けた後、10月ないしは11月の中旬にロクスバラ(スコッティシュ・ボーダーズの一交易都市)で武装を解き、自身はその近郊のケルソー大修道院に滞在した。

その際、デイヴィッド二世の摂政アンドリュー・マリ(マー伯の死後摂政に選出された。処刑された同名のタリバーディンの領主とは別人物)とベリック市の「海賊」ジャン・クラブの急襲を受けるも、ベイリオル軍は応戦し、逆に彼らを捕らえたと言われている。

エドワード三世への臣従礼

ベイリオル王はその後、11月24日にロクスバラからエドワード三世に向けて書状を出す。その内容は彼がエドワード三世に臣従礼を行い、スコットランド王国を彼から保有するものとして認めるというものだった。またベイリオル王はエドワード三世に対して軍役の義務を負った他、ベリック市と州、ならびに両王国の境界地帯に属する年額2,000ポンド相当の土地をエドワードに譲渡した。

この臣従礼自体は彼がもともとイングランド王の家来であったこと、ならびに父ジョン王とエドワード一世の関係を鑑みれば決して不自然なことではない。しかしながら、この臣従礼は「スコットランドに関するイングランド王の権利」の問題を再燃させることになり、それまではベイリオルと廃嫡者たちが独自に遂行するに過ぎなかった戦争に、イングランド王という巨大な利害関係者を巻き込んでいくことになる。

親デイヴィッド二世側の動き

一方、デイヴィッド王側は10月7日、先の戦いで没したアレグザンダー・フレイザーの弟ジェームズとサイモン、ならびに厩舎長(軍務の高官)ロバート・キースの孫で同名のロバートがパースの町を攻撃し、そこを守っていたファイフ伯とその妻子をはじめ多くの者どもを虜にした。先の戦いでベイリオルを支援したと言われるタリバーディンの領主もこの時捕囚の身となり、王に対する反逆の罪で処刑されている。

1332年の暮れ

その年の戦いは一進一退で終わった。ロクスバラに滞在した後、ベイリオル王はイングランドとの境界付近の町アナン(現在のダンフリース&ギャロウェイ地方)へ移動した。その際、エドワード・ブルース(ロバート一世の弟)の私生児アレグザンダー・ブルースも彼の配下に加わったとされている。

12月16日、マリ伯位を継いだジョン・ランドルフ(戦死した前伯トマスの弟)、アーチボルド・ダグラス(ロバート一世の忠臣ジェームズ・ダグラスの弟)、ロバート・ステュワート(デイヴィッド二世の年上の甥で、その家系は代々スコットランド王国の執事卿を世襲)、サイモン・フレイザーが手勢(年代記は1,000人とする)を集め、王ベイリオルが滞在するアナンを急襲し、彼を敗走させた。

この戦いで王弟ヘンリ・ベイリオル、ジョン・モウブレー、ウォルター・カミンらが戦死、王の軍門に下ったばかりのアレグザンダー・ブルースは捕虜となったが死は免れた。 王は少数の手勢とともにイングランドのカーライルへと逃げ延びた。かくして、1332年の戦いは両者大きな犠牲を出して終了し、ベイリオルの計画は再び「振出しに戻った」のだった(『スカラクロニカ』)。

不透明な先行きと頻繁な鞍替え

一方で、『ラナーコスト年代記』はベイリオルの敗走後、摂政となったアーチボルド・ダグラスが一時ファイフ伯を投獄するも、ほどなくして釈放し伯に所領を返還したエピソードを伝えている。また、ベイリオル王が敗走したこことで多くのスコットランド人が再度鞍替えをしたと同年代記は述べている。

この話は戦局の先行きが不透明な中、多くのスコットランドの貴顕たちが両軍の間で鞍替えを行った様を教えてくれている。必ずしも、皆が皆いずれかの軍門に絶対的な忠誠を誓って戦いに身を投じたわけではないのだ。

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