史料紹介 #3『宋書』倭国伝

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『宋書』倭国伝とは

『宋書』倭国伝とは中国正史の『宋書』巻97・東夷伝・倭国の条をさします。『宋書』の撰者は南朝梁の時代に活躍した沈約 (441-513年)です。

『宋書』倭国伝の面白さは何といっても「倭の五王」の話が記されている点でしょう。内用は倭の五王の使節とのやり取りの話が主となっています。

『宋書』倭国伝の面白さ

倭の五王とは「讃 (賛)、珍 (弥)、済 (斉)、興、武」のことをさします。彼らがそれぞれどの大王に該当するかは昔から論争となっています。その論争を追うのもまた面白いですが、同書はまた、当時の東アジア情勢を垣間見る上でも興味深いものとなっています。例えば、倭王珍は宋の文帝 (424-453年) への朝貢に際して自らを以下のように称しています。

太祖の元嘉二年、讃、また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。讃死して弟珍立つ。使を遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。(『宋書』倭国伝)

一方、文帝が与えたのは「安東将軍・倭国王」の称号でした。使持節都督の官職のみならず、珍が自称した「安東『大』将軍」ではなく「安東将軍」の称号を与えているところが興味深いですね。

また、文帝は後に次に名が挙がる倭王済に対して使持節都督の職を与えていますが、その時の地域の微妙な差も当時の情勢をうかがい知る上で興味深い差です。

二十八年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍は故の如く、ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。(『宋書』倭国伝)

また、宋の最後の皇帝である順帝も、倭王武に同様の官職と称号を与えていますが、その時は「安東将軍」ではなく「安東大将軍」となっています。これも当時の南朝の倭国観の変遷を知る上で興味深い記述です。

順帝の昇明二年、[中略。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に除す。(『宋書』倭国伝)

興味のある方は、ぜひ一読してみてください。