百年戦争とスコットランド②:一二八六年の政治秩序

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臣従儀礼の様子 (Public Domain)

一二八六年の政治秩序

一二八六年の年が明けたとき、現在のイギリスやアイルランドを含むブリテン諸島から、ドーバー海峡を跨いだ先にあるフランスに至る地域には、当時三つの独立した王国が存在していた。それらは北からスコットランド、イングランド、フランスと呼ばれていた。そして、それらの王国は別々の王によって統治されていた。

こう聞くと、私たちは明確な国境によって切り分けられ、まったく別個のアイデンティティをもった人々からなる近代国家のイメージでそれらを眺めてしまいがちである。しかしながら、中世における政治秩序のあり方はより複雑で入り組んだものであった。

一二八六年のイングランド

当時、イングランドはアンジュー家のエドワード一世(位一二七二~一三〇七年)を王として掲げていた。アンジュー家は一二世紀の中葉から代々イングランド王を輩出してきたが、その一族はまたフランス南西部に広大な所領を持つ貴族の家門でもあった。一三世紀の初頭から中頃にかけてその所領の多くは失われてしまうものの、エドワードは依然としてフランス南西部のアキテーヌ地方に広大な所領を有しており、イングランドの王であるとともにアキテーヌ公でもあったのである。

それはすなわち、彼がフランス王の家臣でもあることを意味していた。一二五九年に先王ヘンリ三世(位一二一六~一二七二年)とフランス王ルイ九世(位一二二六~一二七〇年)との間で結ばれたパリ条約は、イングランド王にノルマンディ公領やアンジュー伯領といった所領に対する権利主張を放棄させる代わりに、リモージュ、カオール、ペリグーといったフランス南西部の土地の領有を認め、アキテーヌ公として、それらの所領に関してフランス王に一身専属的な臣従礼を行う旨を定めた。

臣従礼とは中世ヨーロッパにおいて行われた、封建的な主君と家臣の関係を公式に設定する儀式のことである。これから主君と家臣の関係になるふたりが向かい合い、家臣となる者はひざまずいて両手を差し出し、それを主君となる者が両手で包み込むように受ける。その後主君は家臣を抱きかかえることで、両者は対等な契約関係に入るとされた。

通例、家臣は主君に対して助言や軍役といった助力義務をなす代わりに、主君によって土地などを授けられることになる。一身専属的な臣従礼とは両者の関係をさらに規定したもので、その主君に対する軍役を何者に対しても優先することを定めたものだ。当時のヨーロッパでは複数の主君を持つことが珍しくなく、その中で主従関係の錯綜が見られた。それを明確にし、誰が誰に対して軍役を負っているかを明らかにしたものが一身専属的な臣従礼という訳だ。

パリ条約の内容に基づいて、実際に一二七三年の夏、エドワードは聖地からの帰国の途上フランスを訪れ、時のフランス王フィリップ三世(位一二七〇~一二八五年)に一身専属的な臣従礼を行った。また、一二八五年にフィリップ三世がこの世を去り、新たにフィリップ四世(位一二八五~一三一四年)がフランス王となると、その翌年にエドワードは改めて新王に対して同様の臣従礼を行っている。

パリ条約で定められた内容には一二七九年のアミアン条約、一二八六年のパリ条約によって調整が加えられ、その条項の履行が合意されている。しかしながら、その中でも一貫してイングランド王はアキテーヌ公の資格において、フランス王に一身専属的な臣従礼を行う家臣の立場にあることが明記されていた。

一二八六年のスコットランド

スコットランドの王は、名をアレグザンダー三世(位一二四九~一二八六年)と言った。彼もまた古くからスコットランドを支配する王家の生まれであった。彼はトゥイード川とソルウェイ湾を結んだ線の北側について自分の権威を示すために、単一の「スコット人の王」という称号を用いていた。

彼の支配する地域は南西部のストラスクライドやギャロウェイ、北部のマリ、西部の島嶼地域といったかつてそれぞれ別個の王を有していた地域の集合体であり、ケルト語系のゲール語を話す人々もいれば、ノルマンディー系イングランド人の血を引く人々もいるなど、文化的には到底一枚岩と言えるようなものではなかった。しかしながら、一二八六年の段階において彼らは国の民としての共通のアイデンティティと呼べるものを備えるようになっていた。

アレグザンダー三世とエドワード一世は婚姻によって親戚関係にあり、双方の家臣にはイングランドとスコットランドの双方に所領を持つ者も多く、一三世紀の大半を通じて友好的な関係が築かれていた。一方で、スコットランド王国はイングランドに従属するか否かという問題は、激しい論争を巻き起こすものではなかったにしても、アレグザンダー三世の治世において二度噴出した。

それは、彼がまだ幼少の時であった一二五一年と、成人になった後の一二七八年のことであった。いずれの機会においても、アレグザンダーは自身の王国に関して臣従礼を行うことを拒否し、その主張はイングランド側でも「当面の間」保留にするという形で容認されていた。イングランド側の主張が完全に忘れ去られたわけではないものの、一二八六年の段階においては、スコットランドは長らくイングランドから独立した王国として存在していたと言える。

一方で、アレグザンダー自身もイングランド北部に所領を持っており、その所領に関してはイングランド王に臣従礼を行う家臣であった。実際、彼は一二七八年九月、ウェストミンスターで開催された議会においてエドワード一世に対して臣従礼を行っている。

王国自体の独立性は主張しながら、個人的な関係においては、自身のことをイングランド王を何者にも優先する主君と仰ぐ「一身専属的な家臣」であることを認める。これが一三世紀末のスコットランド王とイングランド王の関係であった。

さらには、彼が幼少期に結婚した相手はイングランド王ヘンリ三世の娘マーガレットであるし、義父のヘンリ三世は自らアレグザンダーを騎士に叙しただけでなく、未成年期にはしばしばその監督役としてスコットランドの政治に干渉を行っていた。成人した後も彼は頻繁にイングランド王の宮廷を訪れており、誠実に家臣としての責務を果たしている。しかしながら、スコットランド王国に関しては彼はイングランド王への従属を決して認めない。この絶妙に複雑な関係が、当時の「国際」関係を理解する上で重要だ。

一二八六年のフランス

フランスは当時カペー家のフィリップ三世が世を去り、その息子のフィリップ四世が即位したばかりの頃であった。カペー家は九八七年に選挙によって王に選ばれたユーグ・カペーの時代から続く由緒正しい王家であった。一二八六年の段階において、フィリップはエドワードやアリグザンダ―のように他の誰かの家臣であることはなく、一二世紀後半から一三世紀にかけての王権の拡大によって、カペー家は王国内における最も強大な土地保有者となっていた。

しかしながら、南西部をアキテーヌ公たるイングランド王が領有していたように、彼の王国はさまざまな歴史的経緯や慣習、アイデンティティを持った地域の集合体であり、非常に複雑な構造を持っていた。一三世紀にカペー王権の強い影響下に入ったノルマンディ、ポワトゥ、トゥルーズのような地域においてもそれぞれ別々の慣習法の存続が見られただけでなく、ブルターニュやフランドルなどには以前として独立性の強い諸侯領が存在していた。

ただし、一三世紀に入ると王は各地にバイイやセネシャルと呼ばれた代官を派遣し、政治的に介入を行っていくようになる。また、各地の紛争において自身の裁判権を主張し、それを足掛かりに支配の地歩を固めていく動きが見られた。一二〇〇年にイングランド王ジョン(位一一八九~一二一六年)がフランス王フィリップ二世(位一一八〇~一二二三年)と結んだル・グーレ条約もそのひとつだ。この条約では、フランスにおけるジョン王とその封建家臣の間の紛争にフランス王が裁判権を持つことが承認された。実際にこれが根拠となって、ジョン王は一二〇四年にノルマンディを喪失してしまうことになる。

フランス王による裁判権の主張と各諸侯領に対する政治的介入は、次のルイ九世の時代にも盛んに行われた。彼はシャンパーニュやフランドルの継承問題、フォルカルキエ伯領を巡る紛争などの調停という形をとった。王は王国において私戦による紛争解決を禁止し、その解決を国王宮廷に持ち込ませることで王国の平和を維持しようと努めた。これによって国王宮廷に対する上訴が急増したことで、やがてそこから司法部門が分化し、パリの中心地、セーヌ川に浮かぶシテ島の王宮の一室に執務室を与えられるようになる。この法廷が発展していき、一三世紀末には高等法院と呼ばれる組織になっていく。

加えて、政治思想の面でも法学者ジャン・ド・ブラノによる「王はその王国においては皇帝である」という理論や、同じく同時代の法学者フィリップ・ド・ボーマノワールの「王が欲するところは、法が欲するところである」といった標語が援用され、王権の支配の正当性が論理武装されていった。ブルターニュやフランドルといった独立性の強い諸侯領においても、王の特使が派遣されるようになるなど、徐々に王権による上からの支配が見られるようになっていった。

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