一組の結婚の話
少し時代を下ることになるが、一二九六年に一組の男女が縁組を行った。新郎の名はジェームズ・ステュワート、新婦の名をエギディア・デ・バーグと呼んだ。
前者は代々スコットランド王の執事(ステュワード)を務めた家門の出身であり、その役割ゆえにスコットランド王国における主要な貴顕のひとりとして名を連ねていた。彼らは歴史のある時点から、その役職を取ってステュワート家と呼ばれるようになっていた。ちなみに、その子孫が後にスコットランドとイングランドでステュワート朝を創設することになるが、今からはまだ遠い先の話である。
ジェームズ・ステュワートの祖先は、フラアルドの息子アランというフランス北西部のブルターニュ地方出身の騎士で、一二世紀の初頭の史料からその存在を確認することができる。アランはイングランド王ヘンリ一世に仕えており、その見返りに王からシュロップシャーにあるオズウェストリーという所領を与えられた人物だ。
彼にはジョーダン、ウィリアム、ウォルターという三人の息子がいた。長男はブルターニュの先祖代々の土地を、次男はイングランドの土地をそれぞれ相続した。そして三男坊のウォルターはスコットランド王の執事として、一一三六年頃にスコットランドに入植した。三男坊ウォルターの家系はスコットランド南西部のクライド川流域にまとまった所領を形成し、その影響力はキンタイア半島にまで伸びていった。
かたや、妻となったエギディアはアルスター伯とコナハトの領主リチャード・デ・バーグの妹だ。デ・バーグ家はイングランド東部のノーフォークの出身で、アイルランドの行政長官となった祖父リチャードの代にはアイルランド西部のコナハトの領主となり、父ウォルターの代には北部のアルスター伯の地位も獲得している。兄のリチャードはその双方を相続し、それらの地域の北と西の縁にも支配権を確立すべく奮闘を続けていた。
王国の境界をまたいだ所領の形成
両家のように、一三世紀には数多くの家門が現在のイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドに跨って所領を形成していた。現代の歴史家は、そんな彼らのことをクロス・ボーダー・バロンズと呼び習わしている。そのような越境的なネットワークは一〇六六年のノルマン・コンクェスト以降、王に随行した北フランス出身の貴顕層がイングランドやウェールズの征服地に入植することで始まった。
その後の展開は、スコットランドにおける王や在地有力者による誘致から、アイルランドで見られたような一方的な征服活動までさまざまな経緯をたどったが、結果としてブリテン諸島にはエリート層の緊密なネットワークが張りめぐらされるようになっていった。
一三世紀の段階では、スコットランドにいた一三人の伯家のうち、九家門はイングランド側にも土地を保有していた。同様にイングランド側の二二の伯家のうち、七家門はスコットランド側にも所領を形成していた。境界を跨いだ土地保有は大貴族に限られる現象ではなく、中小の騎士層や修道院といった宗教団体においても見られる現象だったが、この数字はいかに当時のブリテン諸島のくにぐにが緊密に結びついていたかを示唆している。
婚姻と相続によるネットワーク形成
このようなネットワークは、決して王や大貴族による所領の譲渡といったものだけによって形成された訳ではない。ジェームズとエギディアのような婚姻を通じた結びつきや、不動産の相続もそのようなネットワークの形成において重要な役割を果たした。
一二世紀末にスコットランド南西部ギャロウェイの領主ロッホランは、ノーサンプトンシャーの騎士リチャード・ド・モーヴィルの娘で相続人のヘレンと結婚している。ロッホランはヘレンを通じて、イングランド中部、ハンティンドンシャー内の所領の相続権を主張していた。
残念ながら、その後彼はすぐにこの世を去ってしまったため、その権利主張が成功したかどうかは不明である。しかしながら、ロッホランのように今日まで記録が残っている者も、そうでないもの含めて、彼のように婚姻や相続を通じて各地に所領を形成する動きは決して珍しくはなかった。
また、そのような貴顕の輿入れに同行する形で、その取り巻きが入植者となるような事例も存在した。例えば、一二世紀後半から一三世紀前半を生きたスコットランドのストラサーン伯ギッレ・ブリーテは、中部イングランドの騎士ウィリアム・ドービニの娘モーと結婚している。そのモーに随行する形でその家来の何名かがイングランドからストラサーンに入植し、伯の恩顧を受けて所領を形成していった。
政治や社会の一体性
このような事例は、挙げようと思えばいくらでも挙げることができる。しかし、個別の事例をただあげ連ねることが重要なのではない。重要なのは、境界や海峡を越えてこのような婚姻や所領のネットワークが張り巡らされたことで、一三世紀末のブリテン諸島の各地は緊密に結びつき、地域ごとの多様性は当然ありながらも、政治や社会の面でのひとつのまとまりをもった世界を形成していたということだ。
例えば、スコットランド王アレグザンダー三世の未成年期にあたる一二五〇年代は、中央権力の掌握をめぐって二つの派閥が対立関係にあったが、いずれの側もイングランド王ヘンリ三世とのコネクションを利用して中央権力の掌握をはかろうとした。
また、一二六〇年代にイングランドがヘンリ三世とシモン・ド・モンフォール率いる貴顕層との間で内戦に陥った際、それぞれスコットランドとイングランドの双方に所領を持っていたブルース家、ベイリオル家、アンフラヴィル家といった面々は、アレグザンダー三世の同意を得て、スコットランドの手勢を率いてヘンリ三世の救援に駆けつけた。
一二七五年には、今後はアレグザンダー三世がマン島の抵抗勢力を抑えるために遠征軍を派遣した際、イングランド北部の貴族ジョン・ド・ヴェスキーはその遠征軍の指揮官のひとりとして軍を率いていた。
スコットランドにおける植民の進行
ことスコットランドに関して、このような一体性の形成はデイヴィッド一世(位一一二四~一一五三年)以降の王権によるイニシアティブによるところが大きかった。王は青年時代をイングランド王の宮廷で過ごしたこともある他、中部ハンティンドンシャーや北部カンバーランドに所領を持ち、イングランドにおいても自身の家臣団を有していた。
その家臣が王に随行し、土地を与えられることで形成されていった。彼らの多くは貴族家門の次男坊以下であり、先祖代々の土地を受け継ぐ長男と異なり、自ら立身出世して身を立てる必要があったのだ。前述したアランの息子ウォルターもそのひとりだった。
かくして、デイヴィッド一世、彼の孫であるマイル・コルム四世(一一五三~一一六五年)、その弟であるウィリアム一世(位一一六五~一二一四年)やハンティンドン伯デイヴィッドの時代には、彼らがイングランドに所領として保有していたハンティンドンシャーや、影響力を行使していたイングランド北部から多くの貴族家門の流入が見られ、入植していった。
特にもともと王権の支配が浸透していたロウジアンと呼ばれるフォース湾以南の地域や、王が新たに支配の確立を目指した南西部のギャロウェイやクライド川流域、北部のマリ地方には一二世紀の段階からそのような入植が進み、土着の人々との混交が進んでいった。
一方、比較的古くから王の支配を認めていたものの、土着の有力者がまとまった支配域を持っていたフォース湾以北の地域において、そのような入植による土地保有の形態変化や文化の混交がはっきりと見られるようになるのは、ようやく一三世紀の後半になってからだ。しかしながら、一三世紀の末の段階では婚姻や相続を通じて、ファイフ、ストラサーン、バカン、アソル、アンガスといったフォース湾以北の諸伯もイングランド側に所領を持つようになっていた。
王国境界をまたいだ政治的な結びつきは明白だった。この緊密なネットワークを背景にして、イングランドとスコットランドは一二一七年から一二八六年の間、王国間の戦争を経験することはなく友好的な関係を維持することができたのである。
レファレンス
記事
書籍
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