中世スコットランドにはどれくらいの人々が暮らしていたのか?

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スコットランド

ヨーロッパの北西に浮かぶグレート・ブリテン島の北部に、スコットランドと呼ばれる地域が存在する。

風光明媚な自然、陽気なバグパイプの音が聞こえる活気あふれる都市、色とりどりのタータン・チェックに良質なスコッチ・ウィスキーの数々。

さまざまな魅力にあふれたこの北国は現在、イギリス、正式には「グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」を構成する国のひとつとしてイングランド、ウェールズ、北アイルランドとともにひとつの国家を形成しているが、1707年にスコットランドとイングランドが政治的に合同を果たす前の時代、すなわち中世においては両者はまったく別の王国として存在していた。

そして、そのスコットランド王国は南のイングランド王国と文化的に共通する特徴を持ちながらも、独自の分化や政治制度、社会を形成していた。

1801年以降のスコットランドの人口

スコットランドはイギリス全体の約1/3、おおよそ日本の北海道と同じくらいの面積を誇る。では、この土地には過去から現代にかけてどれくらいの人々が生活を営んできたのだろうか。

現代において、国の人口規模を示すもっとも基本的な資料は国勢調査だ。2022年に行われた国勢調査によれば、現在スコットランドには約540万人が生活しているそうだ。この国勢調査、その歴史は1801年にさかのぼる。

その時以降、スコットランドでは第二次世界大戦中に一時中断したのを除けば、今に至るまで10年間隔で国勢調査が継続して行われている。

では、その初回の国勢調査が行われた1801年の人口は何人だったのだろうか。資料によれば、その時の人口は約160万人だったらしい。

スコットランドではそこから1921年の国勢調査まで人口は伸び続け、1951年にはついに500万人を突破する。それ以降、人口は増減がありながらも横ばいないしは緩やかな増加が見られ、現在の540万人に至る。*1 これが19世紀以降のスコットランドの人口の推移を大まかに概略したものだ。

18世紀以前のスコットランドの人口

では、次に気になるのは1801年より前の時代において、現在私たちがスコットランドと呼びならわす地域にはどれだけの人々が暮らしていたのかということだろう。残念ながら、国勢調査に比肩するようなものが存在しない時代においては、人口の推定はより難しくなってくる。

手がかりと言える史料を総合的に検討し、近似値と思われる推定をするよりほかないからだ。税に関する史料なんかはその好例だ。イングランドのように史料が量、種類ともに豊富に残っている地域であれば、歴史家はそのような史料を手掛かりに、ある程度の正確さをもって推測することができる。

ただし、スコットランドは決して史料が豊富に残っている地域ではなく、その推測は非常に大雑把なものにならざるを得ない。その時系列的な変化を追うことはよりいっそう困難だ。

とはいうものの、比較的後の時代であれば、ある程度正確と考えられる推測も出すことができる。たとえば、研究者たちは1691年に徴収された炉税ハース・タックス からの推定に基づいて、当時の人口は120万人程度だったと考えている。そのため、1700年頃までであれば、ある程度の精度をもって過去のスコットランドの人口をたどることができる。

しかしながら、さらに古い時代となると、その時のスコットランドの人口がどの程度だったかを推定する手がかりとなるような史料は現存していない。

そのため、もしおおよそ1500年までの中世の時代におけるスコットランドの人口を推定しようと考えるならば、その推定にあたってはスコットランドもヨーロッパの他地域と同じような人口の増減の推移をたどったという仮定を立てたうえで、イングランドなどより正確に人口の変化を把握できる地域の人口の推移から類推するよりほかない。

中世ヨーロッパの人口動態

およそ11世紀から13世紀にあたる中世中期のヨーロッパは、史上まれに見る温暖な時期を経験していた。気候変動の歴史を研究したブライアン・フェイガン氏によれば、800年から1200年までは「それ以前の8,000年間のなかでもきわめて温暖な4世紀間」だったとしている。その時のヨーロッパの夏の平均気温は「20世紀の平均よりも0.7度から1.0度」高く、中央ヨーロッパでは現在の平均気温よりも「1.4度高かった」。*2

このような気温の増加が穀物の生育をうながし、食糧生産量の増加は人々の栄養状態を向上させた。飢饉や疫病に見舞われる年がないにはなかったにせよ、この時期のヨーロッパではそれらによる死者を上回るペースで人口が増加していった。

そして、歴史家たちはヨーロッパの人口はおよそ1300年頃にピークに達したと考えている。そして、この時のイングランドの人口はおよそ500万人から600万人に達したと考えられている。*3

その後、14世紀に入るとこれまで温暖だった気候が今度は寒冷化し、それに伴って穀物生産量も低下、相次ぐ異常気象や家畜の疫病によって人々の生活は過酷なものとなっていった。

その象徴的な出来事が、1315年から1317年にかけてヨーロッパをおそった「大飢饉」だろう。現在のベルギー、オランダ、フランスにまたがるフランドル地方の都市部では、1316年の1年間だけで人口が5%から10%程減少したと推定されている。*4 

イングランドでも1316年から1318年の3年間で平均して10%程度減少した。*5中南部イングランドなど人口密集地ではそれ以上に被害が出たほか、ハンプシャー、ケンブリッジシャー、ウスターシャーでは年間死亡率が50%を超えるような荘園マナーも存在したことがわかっている。*6

さらに、1347年から1351年にかけてヨーロッパを襲った黒死病の第一波は少なくとも当時のヨーロッパの3人ないしは4人に1人の命を奪った。*7

このような度重なる災厄によって、1300年にピークを迎えたヨーロッパの人口は14世紀を通じて一気に減少していった。15世紀の終わり頃にはようやく人口回復の兆しが見られるようになるものの、ヨーロッパの人口がふたたび1300年の水準まで回復するには18世紀まで待たなければならなかった。*8

中世スコットランドの人口

このようなヨーロッパ全体の対極的な人口の変化を踏まえて、中世スコットランド史家のアレグザンダ・グラント氏は、1707年にイングランドとスコットランドが統合された年の推定人口である110万人という数字が、中世においてヨーロッパの人口がピークを迎えていた14世紀初頭のスコットランドにおける人口水準と近しいのではないかと推測する。*9

その推定の根拠として、氏は前工業化社会において人口の大部分は農村にて農業を営んでいたこと、ならびに18世紀初頭の農業環境が中世後期のそれと大きな差がないと考えられることを挙げている。

また、先ほど述べた通り、ヨーロッパでは18世紀になると1300年頃の水準まで人口は回復をみせるようになる。イングランドも同様で、1700年頃と1300年頃の推定人口がともに500万から600万人程度で同じくらいと推定されていることからも、氏はスコットランドも同様に18世紀初頭の人口が中世のピーク時の水準と同じであっただろうと推測している。

したがって、およそ100万人という数字が、ピーク時の中世スコットランドの人口としてここでは了解しておくのが良いだろう。

*1:Scotland's Census 2022 - Rounded population estimates (https://www.scotlandscensus.gov.uk/2022-results/scotland-s-census-2022-rounded-population-estimates/: accessed 30 March 2024)

*2:ブライアン・フェイガン (東郷えりか、桃井緑美子訳)『歴史を変えた気候大変動』(河出出版書房、2009年)、第1章

*3:A. Grant, Independence and Nationhood: Scotland 1306-1469 (Edinburgh, 1984), 72; ラルフ・グリフィス編 (北野かほる監訳)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史5: 14-15世紀』(慶応義塾大学出版会、2009年)、57頁

*4:W. C. Jordan, The Great Famine: Northern Europe in the Early Fourteenth Century (Princeton, 1997), ch. 7

*5:W. C. Jordan, The Great Famine: Northern Europe in the Early Fourteenth Century (Princeton, 1997), ch. 4

*6:ラルフ・グリフィス編 (北野かほる監訳)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史5: 14-15世紀』(慶応義塾大学出版会、2009年)、59頁

*7:K. Jillings, Scotland’s Black Death (Stroud, 2003), 7

*8:ラルフ・グリフィス編 (北野かほる監訳)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史5: 14-15世紀』(慶応義塾大学出版会、2009年)、67頁

*9:A. Grant, Independence and Nationhood: Scotland 1306-1469 (Edinburgh, 1984), 72