YuRAN-HIKO

アナリスト兼、日曜歴史家のブログ。ゲーム分析や歴史のトピックが中心。

百年戦争とスコットランド II-III:戦争と平和

「アーブロース宣言」と呼ばれている書状 (Tyn 版) (Public Domain)
「アーブロース宣言」と呼ばれている書状 (Tyn 版) (Public Domain)

大陸との通商

先に述べた通り、ロバート・ブルースの戦いは大陸の諸君主からの支援を得ずに遂行されたものだった。一三〇九年にはフランス王フィリップ四世とスコットランド王ロバート一世との間でコンタクトはあったが、両者の間で軍事同盟の更新ないしは再締結は行われず、大陸からの軍事援助や共同戦線が展開されたわけではなかった。

また、一三一二年一〇月にはノルウェイとスコットランドの間で条約が結ばれ、一二六六年のパース条約(ノルウェイ王はスコットランド西部地域の宋主権を譲渡する代わりに、スコットランド王から毎年一〇〇マークの支払いを受けることを定めた)の再確認がなされた。しかし、これもまた両王国間での軍事同盟というわけではなかった。

戦争の経済的側面

しかし経済や通商の側面ではブルースの王国は大陸とのコネクションを維持しており、そこから得られた関税収入や大陸から流入した武器・防具は彼らが戦争を遂行する上で重要な役割を担った。

残念ながらこの時期の財務文書は残存しておらず、その正確な規模や内訳を把握することはできない。しかしながら、断片的な情報からその痕跡を窺うことは可能だ。それらによるとスコットランドからは羊毛、皮革、木材などの原材料が輸出され、現在のベルギーやオランダにあたる低地地方、北ドイツのハンザ諸都市、バルト海沿岸地域から武器・防具、食料や手工業製品が輸入されていたことがうかがえる。

とりわけ一三〇八年七月に、ブルースが北西部の都市アバディーンを掌握したのが大きかった。アバディーンは北海交易の一大拠点であり、スコットランドにとっては大陸からの物資の玄関口だったからだ。ちなみにこのアバディーン征服には、ドイツ出身の商人の協力も少なからずあったと言われている。

交易の表と裏

そればかりでなく、イングランド側の記録によれば、この時期イングランド東岸の諸都市との密貿易や、スコットランド人海員によるイングランド船の私掠活動も行われていた。一四世紀前半の有名なフランドル人商人・冒険家・海賊であるジャン・クラブもこの時期、ブルースに味方してイングランド船に対する私掠活動を行っており、後にその褒賞としてアバディーン近郊の土地を譲渡されている。

このような活動に対してエドワード二世は度々取り締まりを行い、フランドルや北ドイツの諸侯に対して彼の「反乱者」、つまりスコットランド人との交易を止めるよう申し立てた。しかしながら現在のような高度な技術や警察組織が整備されていない当時の社会では、そのような活動を根絶するのは限界があった。一三一〇年代、二〇年代にも同様の事例は継続していたからだ。

バノックバーン以降の戦争の経過

バノックバーンの戦いに勝ったからといってブルースの戦いが終わったわけではなく、エドワード二世は引き続き彼の王位を認めず、戦争を継続する姿勢を見せていた。後世の目から見れば、バノックバーン以降の数年間はブルース側によるブリテン諸島各地への大規模な侵略戦争によって特徴づけられる。彼の大きな目的はエドワードに圧力をかけ、最終的に和平条約への合意に至らせることだったが、同時にその侵略は敵側の弱みに付け込んで自身の支配圏を拡大していくという当時の貴族社会では決して珍しくない戦略の表れでもあった。

イングランド北部

ひとつ目はイングランド北部――ノーサンバーランド、カンバーランド、ウェストモーランド、ダラム、ヨークシャー――だ。一三一四年から二二年にかけてこれらの地域は大きな被害を受けることになった。ロバート一世の重臣、ジェームズ・ダグラスとマリ伯トマス・ランドルフに率いられた軍勢は、その期間毎年のようにイングランド北部への略奪遠征を実施した。

その中には一三一五年七月のカーライル市の包囲のように失敗に終わったものも含まれるものの、戦争と略奪による被害はイングランド北部の地域共同体を大きく動揺・疲弊させた。略奪遠征の主眼は畜牛や鉄製品などの物資の略奪や家屋・糧食の破壊に留まらず、身代金の徴収や、暴力を背景に地域共同体を脅迫し、彼らと独自の停戦協定を結ぶことで金銭を徴収することにも置かれた。この八年間において、彼らがイングランド北部から巻き上げた金銭は総額二万ポンドにも及んだ。

旧スコットランド王の支配圏

ふたつ目はスコットランドの境界地域やイングランド北部のタインデイル(一三世紀にスコットランド王がイングランド王からの封として保有していた)であり、ここでは前世紀前世紀にスコットランド王権の支配化にあった地域の「奪回」と征服地の再編成が進行した。

ここでもロバート側は暴力によって在地有力者や共同体を威嚇し、彼らの離反を取り付けることで勢力を拡大していった。しかしながら、王とその一派は決して単なる略奪者に留まったわけではない。ロバート一世は新たに征服した地を家臣に褒賞として与え、地域の支配構造を再編成していった。

ロバート一世による「奪回」の最終目的は、最後まで彼の支配圏外にあったベリック市だった。彼らは境界地域の一大商業都市として栄えた同市を一三一六年から毎年攻略を試み、最終的に一三一八年四月に陥落させた。その後、境界地域のイングランド側にある諸城も次々と降伏していき、彼は王国の支配域の「回復」を成し遂げたのだった。

アイルランド

そして最後がアイルランドであり、一三一五年から一八年にかけて、王弟エドワード・ブルースによる遠征と征服が実施された。当時、アイルランドはイングランドにとって物資や兵士の供給地だった。

それだけでなく、カミン家の親戚でイングランドに亡命していたマクドゥガル家がスコットランド西部の島嶼地域やマン島(一三一三年にブルース側が征服し、一三一五年にマクドゥガルが奪取、一三一七年に再びブルース側が征服)に対して遠征を計画する際の拠点でもあった。その地を押さえることはブルースにとって戦略上重要だったほか、研究者のなかにはこの年に始まる中世最大の大飢饉をやり過ごすための食糧獲得を遠征の目的のひとつに挙げる者もいる。

また、遠征の動機には弟エドワードの個人的な野望もあったのだろう。エドワード・ブルースは一三一五年の五月、アイルランド北部のアルスターに上陸、同地の侵略を進める過程で自らアイルランド王を名乗った。彼は同年、島の東部レンスター地方まで侵攻し、そこでアルスター伯リチャードを敗走させている。

しかし、彼の軍勢はアイルランド全域を支配するにはあまりに少数だった。その支配基盤は北部のアルスター地方に限定されており、とても盤石と言えるものではなかった。しかも、当時のヨーロッパは前述の大飢饉に見舞われており、彼もまたその災害に苦しめられていた。アイルランドの在地のゲール系氏族はブルースの到来をイングランド人の排除のチャンスとして受け容れるのではなく、各地域の利害抗争で優位に立つための手札として利用した。結果、ブルースは複雑で長期化した各地の対立や私戦に巻き込まれることになった。

一三一七年には兄ロバートの援軍も到着し、一通り島を荒らしまわるものの大きな成功を収められなかった。エドワードは翌年もアルスターに残り、飢饉が落ち着いたのを見計らってその年の夏から再び侵攻を開始するも、一〇月にフォーアートの戦いでアングロ=アイリッシュ貴族の連合軍に敗れ、命を落とした。彼の遺体はバラバラにされ、見せしめとしてダブリンの城壁にさらされた。ブルース家によるアイルランド支配の野望はここに潰えることとなった。それだけではなく、彼の死によってロバート一世はすべての兄弟を失ってしまい、齢四四歳で依然男子に恵まれない中、王位継承の不安に悩まされるようになるのだった。

教皇の介入とプロパガンダ

長期化する戦争は教皇の目に余るところとなった。この頃、ブルース個人はジョン・カミンの殺害に対する破門を解除されてはいたものの、依然として彼に対する教皇庁の態度は好意的ではなかった。

一三一七年の夏、時の教皇ヨハネス二二世は使節を派遣し、キリスト教世界全体の利益を鑑み(=平和の樹立とイスラム教徒に対する十字軍の組成)てエドワード二世と和平ないしは休戦を結ぶよう勧告した。その時に教皇側がブルースの王位を認めなかったために、彼はそれを自身の権利主張に対する脅威であると捉えた。また、彼にとってその勧告はベリック市を陥落させるという自身の軍事目的を阻害するものでもあった。

ブルース側は教皇に書簡を送り自身の正当性を主張し続けたものの、教皇側はそれに応じず半ば強引に休戦を宣言しようとしたため、最終的にブルースは教皇側の勧告を無視してベリック市を攻撃した。長期にわたる包囲の末、彼らは一三一八年の四月に同市を陥落させてしまう。同年六月、王とその重臣たちは教皇によって破門され、スコットランド王国全体に対して聖務停止令(=俗人に対する聖餐式やキリスト教式の埋葬の禁止)が下った。

破門・聖務停止・プロパガンダ

破門宣告後も教皇側がスコットランドに対する介入を続けたことで、ロバート側は反撃に出る。一三一九年一一月、教皇はスコットランドの司教四名をアヴィニョンの教皇庁に召喚して彼らとロバート・ブルースの行動に対して説明を求めたほか、ロバートに対して引き続き破門を宣告した。

この扱いに対してブルース側はアクションを起こす。一三二〇年四月、国王ロバート、聖職者たち、王国の並みいる世俗の貴顕たちの連名からなる書状が教皇ヨハネスのもとに送られた。その書状の主旨はブルースとスコットランド側の正義(太古よりスコット人はいかなる隷属からも自由な国の民だったが、エドワード一世とその息子の侵略と悪行に苦しめられており、その悪行から解放され自由になるために立ち上がったロバート・ブルースを正当な王とした)を教皇に伝えるというものだった。

中でも世俗貴顕たちの書状は――一七世紀以降に名付けられた「アーブロース『宣言』」でも、近代になって誤って解釈されたような「スコットランドの独立宣言」でも決してなかったが――教皇に対して彼らの王たるブルースの正当性と、彼を支える王国貴顕層の一体性を喧伝する強烈なプロパガンダだった。依然として教皇ヨハネスはブルースの王位を認めることはなく、破門も解除なされなかったものの、教皇の返答には歩み寄りの姿勢が見られるようになった。教皇、そしてフランス王からもエドワードに対して平和の樹立を求めるような圧力がかかるようになっていく。

戦争、そして休戦へ

それまでブルース側の侵攻を受ける一方だったイングランド王もベリック陥落は看過できず、対立していた王国貴顕に妥協して和解すると、翌年にバノックバーン以来五年ぶりの遠征を行った。

王は五人の伯を含む大軍でベリックを包囲し、ブルースに「スコットランドに対するイングランドの上級支配権を認めれば、その命と平和を約束する」という挑発的な主張を突き付けた。そんな侮辱ともいえる主張に対して、ブルースは「いかなる地上の主君も認めない(=神のみを主君と認める)」と述べ否定したと言われている。

ブルースはここでも直接対決を避ける道を取り、ベリックを包囲するイングランド軍のもとに向かうのではなく、イングランド北部に略奪遠征軍を派遣した。遠征軍は深くヨークまで侵攻し、ヨーク司教が組織した地域の防衛軍を打ち破った。その知らせはベリックを包囲するイングランド軍のもとにも届き、彼らの統制を失わせる。当時ヨークには女王が滞在しており、ブルース側が女王と捕えようとしているとの噂が流れたからだ。さらに、その先にはベリック包囲軍の主力であるランカスター伯トマスの所領が存在していた。

結果トマスは帰還し、続いてイングランド軍も解散する。ロバート側も軍を引き上げ、一二月、その年の戦いは二年間の休戦によって幕を閉じた。

戦争再開、そして長期休戦へ

休戦が明けた一三二一年から一三二三年にかけて再び戦端が開かれるが、徐々に流れは戦争を終結させる方に向かっていった。当時、イングランドはエドワード二世と彼に敵対する貴顕層の間の内乱に陥っていた。

一三二一年の末、ブルースは反王派の頭角ランカスター伯トマスと手を結び、再びイングランドへの侵攻を行った。不幸にもランカスター伯が敗れ、その後処刑されたことで、イングランド国内の趨勢はエドワード二世側に有利に傾くようになる。翌年の八月、今度はエドワードがスコットランドに対して総勢二万人の大軍を率いて遠征を行った。エドワードはベリックを無視してロウジアンに深く進軍したが、ブルース得意の焦土作戦を前にして大きな戦果を挙げることができず、折しもそこに飢饉が重なったことで軍は九月に解散となった。

それを好機と捉えたブルースは自らヨークまで進撃し、再びイングランド北部を蹂躙した。度重なる侵略によって疲弊したイングランド北部の地域共同体は和平を求めるようになり、なんとその指導者のアンドリュー・ハークレイが「スコットランド王」ロバートと独自の和平協定を結ぶに至る。この独断はイングランド王にとっては背信行為以外の何物でもなく、彼はすぐに処刑されてしまうのだが、このような事態も目にしたことで、エドワードも徐々に戦争を終結させる必要を認識するようになっていった。一三二三年の五月、両王の間で一三年間の長期休戦が締結された。

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