文字以前の社会におけるデータの保存

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太古より、人類は様々な情報をもとに意思決定を行ってきた。そしてその意思決定を支えるために、様々なデータが時代の要請に応じて作られていった。文字はその最たるものの1つだ。私たちは文字を使って記録を残し、それを参照して誰かが意思決定を行う。今から5000年以上も前に中東やエジプトで発展した書記体系はデータの作成や保存にとって大きな変革をもたらした*1

では、文字以前の社会において人々はどうやってデータを残していったのか。そしてそれは何に用いられたのだろうか。

文字以前の時代:会計の記録

言語学者のフィッシャーによれば、最初期の文字は会計上の必要性から発展してきた*2。この時期は農業が生まれて集落が発展し、その余剰生産物を管理するために人々の役割が分かれ、都市などのより大きな集落に発展していった時代だ*3

ただし、ある日突然、何もないところから会計上の要請で文字が生まれたわけではない。会計の問題を解決するために、文字が生まれる以前でも様々なニーモニック (記憶補助装置) が用いられた。

文字以前の記録

結び目を用いた記録 (インカ帝国)

新石器時代のはじめ頃には、結び目を使って記録を残す方法が広く見られた。その発展の頂点にあるのがインカ帝国で用いられたキープと呼ばれるものだ。

キープはその結び目によって数を表し、紐の色によって物の種類を表すと考えられている*4。しかしまだまだ未解明の部分が多いようだ。

「インカ帝国展」の展示 from https://kassy3250.blog.fc2.com/blog-entry-2190.html

キープは、インカ帝国における日々の商品の交易や貢納物の支払いを記録するために用いられたとされている。それらは「キープ読み」の能力をもった役人によって管理監督された*5

キープほどの発展を見せてはいないものの、このように結び目を使った記録はアラスカからチリにかけて広く見られる方法だ。このキープ自体は16世紀にスペインがインカ帝国を征服した後であっても、日々の活動の記録に用いられた*6

トークン (古代メソポタミア)

長年、欧米の博物館には用途不明で研究者が首をかしげていた粘土製品があった。直径2センチメートル前後の幾何学形のものと、それらが入った直径10センチメートルくらいの中空のボールだ。前者は英語で「しるし」や「代用貨幣」を意味するトークン、後者はラテン語で「球」を意味するブッラと呼ばれている*7

奥の球状の物体がブッラで、手前の小さなものがトークン。https://en.wikipedia.org/wiki/Bulla_(seal)#/media/File:Accountancy_clay_envelope_Louvre_Sb1932.jpg

トークンは今日の中東各地で発見されている。発見された遺跡の年代も紀元前8000年から1500年と幅広い。中でも特に紀元前4000年期はブッラとトークンの使用において革新が見られたと考えられている*8

ブッラは取引、契約の証として用いられたというのが研究者の見解だ。個々のトークンがその形状で羊やパンなどを表し、その数で数量を記録していた。最初はトークンをブッラの中に入れ、外側に印章を押して取引の証拠とした。そのため、個々のブッラの中に何が入っているかはそれを叩き割って見ないと確認することができない。しかし最初はそれでもブッラの数が多くなかったため、機能していたそうだ*9

トークン。https://en.wikipedia.org/wiki/Bulla_(seal)#/media/File:Clay_accounting_tokens_Susa_Louvre_n1.jpg

その後、ブッラが増えたことでどのブッラがどの契約の証拠かを特定するのが難しくなったと考えられている。その結果、印章の代わりにブッラの中に入れるトークンをブッラの外側に押すようになった。例えば、中に羊のトークンが入っているブッラの外側には、羊のトークンのを押印するといった形だ。また、数量を表すカウント・ストーンと呼ばれるものをブッラの外側に一緒に押印することで、中に何のトークンがいくつ入っているかを判別できるようになった*10

シュマント=ベセラというアメリカの考古学者が、この説を最初に提唱した。彼女の説によれば、個々のトークンの形状が初期の楔形文字の形と似ていることから、このブッラとトークンが後の文字の誕生につながったとされている*11

ただしこの説には批判も少なからず存在しており、研究者の間で完全に見解の一致があるわけではなさそうだ。より折衷案的な解釈はこうだ。古代のシュメール社会で文字が生まれてくるにあたり、そのいくつかはトークンを参考に作られたものもあったかもしれないが、トークン自体が文字の出現を促したという訳ではない。あくまでそのきっかけの1つと考えられている*12

絵文字 (古代メソポタミア)

絵文字は英語でピクトグラム (Pictogram) と言う。日本語では絵「文字」と書くので文字の一種と思ってしまうが、言語学では言語との結びつきがないために視覚記号 (Sign) の一種という扱いらしい。そのため、本記事でも絵文字も文字以前のデータとして考えることにしよう。

1928年のドイツ調査隊により、紀元前3200年~2900年ごろのウルク市の地層から約800枚の粘土板が出土した。これが世界最古の粘土板文書であり、その後ウルク市からは断片を含めて3,000枚以上の粘土板が発見されている。その粘土板には1,000以上の図像が記されている*13

紀元前3200年ごろのウルク市の地層から発見された粘土板。https://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_middleeast_31.html

すべての図像が解読されているわけではないが、中には物資を表す図像と数量を表す図像がセットになっているものもある。大部分の内容が家畜、穀類、土地などについての会計記録だ。発見された場所がウルク市のエアンナ聖域地区という宗教に関連する区画であることから、これらは神殿奉納の記録文書と考えられている*14

ある祝祭行事において消費されるビールの割当量を計算したもの。https://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_middleeast_31.html

おわりに

ここまで、キープ、トークン、絵文字といった文字以前のデータ保存の技術について概観してきた。それらはいずれも、物資の種類とその数量を示すことで交易、貢納、奉納といった活動の記録を残すことに用いられた。

何がどれくらいか、といったデータの保存は今日の社会でもキー・バリュー型といったものがあるように我々にもなじみが深い形式だ。それが今から5000年以上も前の人々によって活用されていた。技術の差はあれど、古代人に親近感を覚えるようなエピソードではないだろうか。