ケルトの歴史:古代における「ケルト」への言及

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タイトル画像。ストーンサークル

皆さんは「ケルト」という言葉にどのようなイメージを持っているでしょうか。バグパイプやハープが奏でるエキゾチックな音楽。幻想的な雰囲気を持った神話。アーサー王伝説といった文学。どこか異質で、秘教的な世界観をイメージする人も多いかもしれません。

もしくは、古代のヨーロッパで繁栄し、その後歴史の荒波に翻弄されながら、今も細々とその伝統を受け継ぐ民族や文化をイメージする人もいるかもしれません。アイルランドを真っ先にイメージする人もいるでしょう。

本記事では、そんな「ケルト」という言葉を扱います。ケルト人はどのような歴史をたどってきたのでしょうか。結論から述べると、ケルトという概念は、決して古代から変わらず存在しているわけではありません。その言葉が意味するものは、時代の変化とともに大きく変化して現在に至ります。

まずは最古の時代、ケルトという言葉が歴史上現れてくる時代において、その言葉がどのように使われたのかを見ていくことにしましょう。

ケルト人に関する最古期の言及

紀元前5世紀。これが旅の出発点です。古代ギリシアの時代と言えば、ピンとくる方もいるかもしれません。この時代に、文献上「ケルト」という名前を最初に見て取ることができます。もしかすると、これよりも前にケルトという言葉はあったかもしれませんが、少なくとも私たちがその起源をさかのぼれるのは、この時代までです。

ミレトスのヘカタイオスによるケルトへの言及

最も古い記述は、ギリシアの歴史家・地誌作家であったミレトスのヘカタイオスという人物によるものです。彼は紀元前5世紀の初め頃に『系譜』という作品を書いたとされています。この作品自体は断片でしか残っていませんが、その中に歴史上初めてケルトという言葉が登場します。それは、以下のような文章です。

リグリアの町マッサリアは、ケルトに近く、そこにはフェニキア人の植民市である、ケルト人の町ヌラックスがある

マッサリアとは、現在のマルセイユの古い呼び名です。すなわち、この文章は今の南フランスのあたりに、ケルト人と呼ばれる人々が住んでいたことを示しています。

ただし、この書の記述には、1つ厄介な問題があります。それは、現存する断片はその1000年ほど後、5世紀に生きたステファヌス・ビザンティヌスという人物によって筆写され、同じく6世紀のヘルモラウスという人物の手によって整理されたものだということです。

つまり、原著は残っていません。原著書の段階でケルトの指摘があったのか、それともそれは後世に付け加えられたものなのか、それは闇に包まれたままとなっています。そのため、最古の記述である可能性はあるものの、その確証はとれないままなのです。

ヘロドトスの『歴史』にみえるケルト

文献におけるケルト人の確実な初出は、同じく紀元前5世紀の中頃に活躍したギリシアの歴史家、ヘロドトスが残したものです。彼は著書『歴史』において、以下のような記述を残しています。

ケルト人は「ヘラクレスの柱」以遠に住み、ヨーロッパの最西端に住むキュネシオイ人と国境を接している民族である。

古代ギリシア人は、現在のジブラルタル海峡のことを「ヘラクレスの柱」と呼んでいました。また、キュネシオイ人とは、イベリア半島に住んでいた人々のことを指していると考えられます。

したがって、ヘロドトスは、バルカン半島からイベリア半島にいたるまでの広い範囲に住んでいる大民族として、ケルト人を捉えていたことになります。

エフォロスが述べるケルト人

時代は少し下って紀元前4世紀の半ば頃、ギリシアの歴史家・地理学者であるエフォロスは、世界の四周に居住する四大民族を、西のケルト人、北のスキタイ人、東のインド人、南のエチオピア人と書き記しました。

東方、すなわち日が沈む方角にはインド人が暮らしている。南方、すなわち真昼に日が昇る方角にはエチオピア人が住んでいる。西方、すなわち西風の神が吹く方角はケルト人が持っている。最後に、北方、すなわちは北極星を取り巻く7つの星々の方角はスキタイ人が支配している。

おおざっぱな記述ですが、ギリシアから見て西方になるため、ヘロドトスと似たような地理感を持っていたのかもしれません。

ケルト人としての自己認識

上記はすべて、ケルト人ではない人々が、ケルト人と呼んだ人々の記録でした。すなわち、そこでケルト人と呼ばれていた人々が、自分たちのことをケルト人と思っていたかどうかは定かではありません。

自分たちをケルト人と認識する記述は、より時代が下った紀元前1世紀になってようやく現れます。次は、そのような記述について見ていきましょう。

カエサル『ガリア戦記』中のケルト

ケルトという自称が最初に登場するのが、カエサルの『ガリア戦記』です。この本の第1巻冒頭の文は、ガリアの一部族として、ケルト(ケルタエ)人がいたという記述から始まっています。

ガリアは全部で3つにわかれ、その1にはベルガエ人、2にはアクィーターニー人、3にはその仲間の言葉でケルタエ人、ローマでガーリー人と呼んでいるものが住む。どれも互に言葉と制度と法律がちがう。

カエサルの記述は、ケルト人ではない彼が、ガーリー人(ガリア人)は自分たちのことをケルト(ケルタエ)人と呼んでいると間接的に述べたものです。

ケルト人の手による記述ではないため、厳密に言えば、この記述から分かるのはどうやらケルト人と自称する人々がいた「らしい」ということまでです。そのような留保が必要になりますが、この記録は自己認識としてのケルト人の最古の記述として、貴重なものであることに変わりはありません。

シドニウス・アポリナリスのケルト的なまり

最後に、5世紀のシドニウス・アポリナリスという人物の例を挙げましょう。彼はガリア出身の西ローマ末期の元老院議員で、詩人や外交官、司教でもあり、後に聖人にも列せられた人物です。

シドニウスは「自分の言葉にはケルト的ななまりがある」という言葉を残しています。一方で、彼は義兄弟への書簡において「野蛮なケルト方言」という表現を使うなど、ケルトに対しては否定的なニュアンスも持っていたようです。いずれにせよ、ケルトの歴史に詳しい歴史家の原聖氏によれば、この記述も、自身がケルトであるという認識を表したものだと考えられます。

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