ピクト人とは何か?古代編:最新の研究を踏まえて解説

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ピクト人とは何か?

ピクト人 (英: Picts / 羅: Picti) とは、古代から中世初期にかけてブリテン島の北部に住んでいたとされる人々の呼称。

ピクト人の初出

ピクト人の初出は297年。ローマ人のエウメニウスという人物が書いた、皇帝コンスタンティウス1世によるブリテン回復を記念した称賛文の中に現れる。このことから、3世紀頃にはハドリアヌスの長城以北に住む、非ローマ人の集団がピクト人と呼ばれるようになったと考えられている。

エウメニウスは、紀元前1世紀のユリウス・カエサルの時代からピクト人はブリトン人の敵であったと述べている。しかし、これは時代錯誤な記述とされている。カエサルと同時代の史料には、ピクト人という呼称が見られないためである。

カエサルの『ガリア戦記』にはピクトーネース族 (Pictones) という言葉が出てくるが、これは現在のフランス、ポワトゥー地方に住んでいた人々のことを指しており、ここで言うピクト人とは無関係である。

ピクト人とはどんな人々か

エウメニウスによるピクト人が何を指しているかは、多くの議論がなされてきた。現在、研究者たちはおおむね、その意味は「彩られた者」ないしは「刺青をした者」であると合意している。

しかし、あくまでピクト人という名称は、ローマ人による呼び名であることには注意が必要だ。この時代のピクト人自身による文字記録は残っておらず、彼らが自分たちのことを何と呼んでいたのかは明らかでない。ローマ人は、ブリテン島においてローマ人の支配下にあるブリトン人と明確に区別するために、彼らの支配に服さない北方の人々をピクト人と呼んだになったに過ぎないのだ。

そのため、ピクト人と呼ばれていた人々が、本当にピクト人という共通のアイデンティティを持っていたのかは謎である。もしかすると、もっと多様なアイデンティティを持った集団だったかもしれない。しかし、その点に関して歴史は沈黙している。

ピクト人と野蛮性について

ピクト人という呼び方が、ローマ人による呼称であることを上で述べた。この「彩られた」ないしは「刺青をした」という意味は、ローマ人によるある種の「野蛮人」意識が反映されていると考えらえている。

ローマ時代において、刺青は奴隷、反乱者、犯罪者、涜聖者といった人々に対してなされるものであり、それは一般のローマ人の目から蔑視された人々であった。そのような蔑視の念、もしくは「他者」意識が、ピクト人という呼称にも込められていると考えられる。

民族について

史料には、ローマ人、ブリトン人、ピクト人といったさまざまな人間集団に関する記述が現れる。私たちはその記述を見ると、あたかも当時の世の中がそのような明確な民族的なアイデンティティによってキッパリと区別されていたように思ってしまう。それを踏まえて、かつてはローマ人対ブリトン人、ブリトン人対ピクト人といったような単純な図式が描かれることもあった。

しかし、人のアイデンティティは多様だ。そのことは、自分のことを日本人でもあり、かつアジア人でもあると見なすことがあることを考えれば、明らかである。

人のアイデンティティは、時と場合によって変化するし、使い分けられもする。また、生きている中でアイデンティティが変わる場合もあるし、同じアイデンティティが親から子へと変わらず受け継がれていく訳でもない。

このように、民族や人のアイデンティティとは複雑で変化しやすいものだ。歴史や現代を考える上で、私たちはそのことを意識しなければならない。

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