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最新の研究が明らかにするピクト人の消滅とスコットランド王国の創成

ピクト人の石碑
ピクト人の石碑 (Wikimedia Commons)

現在スコットランドと呼ばれている地域には古代、ピクト人 (Picti) と呼ばれる人々が住んでいました。ピクト人とはラテン語で体を彩色ないしは刺青をしていた人々という意味で、1300年頃のスコットランドの歴史を題材にした映画『ブレイブハート』にも時代錯誤的な形でそのモチーフが登場しています。彼らはピクト語と呼ばれる独自の言葉を話していたとされています。残念ながらピクト語話者は既に消滅しており、わずかに残る王の名前からその痕跡をうかがい知れるのみです。また、スコットランドでは彼らが作成したとされる碑文や彫刻が複数見つかっています。

このピクト人はおよそ9世紀の末に至るまで、現在のスコットランドを支配していたと考えられています。彼らが支配していた土地はその名前を取って「ピクタヴィア (Pictavia)」と呼ばれていました。しかし、900年頃から彼らは突如として歴史の表舞台から姿を消してしまいます。以後スコットランドはゲール語系のスコット人 (Scotti) が支配する地となり、その土地は彼らの名前から「スコティア (Scotia)」と呼ばれるようになります。このスコティアという名前が現在の「スコットランド」という名称の直接的な起源となっています。

このピクタヴィアからスコティアへの変化はスコットランド人の民族意識とも非常に密接にかかわる問題であるため、現在に至るまで中世初期スコットランド史の一大テーマとして扱われてきました。なぜ突如としてピクト人は消滅してしまったのか?スコット人はどこからやって来たのか?どういった経緯でスコットランドはピクト語を話す人々の土地からゲール語を話す人々の土地に変わったのか?そのような問いに対してこれまで様々な学説が提示されてきました。今回は、そんな中世初期スコットランド史の大いなる謎について触れていきたいと思います。

アルピーンの息子キネイズ

その謎を解く鍵を握る人物として、古来最も重要視されてきたのがアルピーンの息子キネイズ (Cinaed son of Alpín) という男です。より一般的にケネス・マカルピン (Kenneth MacAlpin) ないしはケネス1世と呼ばれることも多いです。彼は9世紀の半ばにスコットランドに実在した王であり、スコット人の王国の祖として扱われてきました。

彼に関する同時代の記録は僅かにその死のみが現在のアイルランドで作成された『アルスター年代記 (Annals of Ulster)』に残っているだけで、その他の史料は全て後代に作成されたものです。

その中でも特に重要なのが歴史家によって『アルバ王の年代記 (Chronicle of the Kings of Alba)』と呼ばれている史料です。これはキネイズを含め12代の王についての治世期間と簡単な事績を伝える「王表 (king-list)」であり、10世紀末にオリジナルが作成されたのちに1200年頃に現在伝来するものに近い形となったと考えられています。現存するものは1360年頃におそらくヨークシャのカルメル会修道院で記述されたものです。現在はパリの国立公文書館に所蔵されています。このように『アルバ王の年代記』はキネイズの死後数世紀に渡って複数人の書記の手を渡って伝来している非常に複雑な史料であり、その読み取り方によって歴史解釈が大きく変わる可能性を持ったものとなっているのです。

まず、『アルバ王の年代記』は彼が16年に渡ってピクト人の土地を支配していたと伝えています。この史料は彼がいつ王位についたかを明らかにしてはいませんが、『アルスター年代記』には858年に「ピクト人の王アルピーンの息子キネイズ」が死亡したと記されています。両者を合わせると彼は843年から858年にかけてピクト人の王として君臨していたと考えられます。

『アルバ王の年代記』はまた、彼がピクト人の土地に来る2年前にダール・リアダ (Dál Riata) の王位を継承したと伝えています。彼がピクト人の王となったのが843年だとすると、彼がダール・リアダの王となったのは841年頃と言えるでしょう。ダール・リアダとは現在のスコットランド西部島嶼地域からアイルランド北部にかけて勢力を誇っていた王国の名前であり、スコット (アイルランド) 人の王を冠していたとされています。

つまり、841年頃にスコット人の王国ダール・リアダの王となったアルピーンの息子キネイズはその2年後にピクト人の王となり、858年に死亡するまでその王であり続けたということになります。この事実がつい最近までキネイズによる「ピクト人の征服」ないしは「ピクト人とスコットの連合」であると解釈されてきました。14世紀末の年代記作家であるフォーダンのジョン (John of Fordun) は『スコット人の年代記 (Chronica Gentis Scottorum)』においてキネイズが戦争によってピクト人の土地を征服したと述べて以来、この征服説は広く信じられてきました。実際、『アルバ王の年代記』にもキネイズがピクト人を殺戮したと記されており、歴史家たちも839年にピクト人の王国がヴァイキングの襲撃によって弱体化したのを受けて、ダール・リアダの王がピクトの王国を征服したと考えてきたのです。

ピクト人の征服説の否定

しかし2000年の後半頃から、それまで優勢であった「ピクト人の征服」説に疑問が呈されるようになり、最新の研究ではこの考え方は否定される傾向にあります。その仔細は非常に専門的な議論になるためここでは深く立ち入ることを避けますが、前述の『アルバ王の年代記』に記されたピクト人の殺戮の話は10世紀末ないしはそれ以降、すでにスコット人による王国が誕生してから長い年月が経った後の人々の手による脚色ではないかと考えられるようになっています。

ダール・リアダ王国は8世紀頃には弱体化していてピクト人による支配を受けるようになり、8世紀の末からヴァイキングの攻撃をたびたび受けるようになります。また、839年にピクト人がヴァイキングによって大打撃を受けた戦いにもダール・リアダの王がピクト側に同行しており、その王もその戦いで戦死していることなどから、果たして当時のダール・リアダ王国にピクト人を征服するだけの力があったのかが疑問視されるようになっています。また、『アルバ王の年代記』にはキネイズが彼の治世に6度に渡ってサクソン人の土地 (現在のイングランド北部にあったノーサンブリア王国と考えられている) を攻撃したと伝えています。この攻撃の詳細については不明ですが、果たしてピクト人を力でねじ伏せた王国がその直後にさらに対外遠征に乗り出すほどの余裕があったのかどうかという点でも征服説に否定的な見解が出されるようになっていきました。

さらに、『アルバ王の年代記』はキネイズがピクト人の支配者となった7年目に、アイオナ修道院にあった聖コロンバの聖遺物を「彼が建設した教会」に移送したと伝えています。アイオナ修道院はダール・リアダ王国の支配圏内にあり、当時のブリテン諸島における重要なキリスト教の拠点でした。また、現代の歴史家はキネイズが建設した教会はダンケルド (Dunkeld) にあったと考えています。もしもキネイズがピクト人を征服したスコット人の王だとするならば、わざわざ自身の王国の一大宗教拠点から貴重な聖遺物を新たに征服した異人の地に移送するということがあり得るのでしょうか。こういった僅かな事実の不整合も、ピクト人の征服説に懐疑的な立場が強まる方向へと作用しました。

加えて、同時代史料である『アルスター年代記』は彼のことを「ピクト人の王」と呼んでおり、『アルバ王の年代記』も彼が16年に渡って「ピクト人の土地」を「つつがなく」支配したと伝えています。また、同時代年代記は彼の後数代の王についても「ピクト人の王」と呼称しています。こういった点を総合した結果、最新の研究では彼による「ピクト人の征服」説が否定される傾向にあるのです。そもそも、彼は本当にスコット人なのか、もしかするとピクト人だったのではないかということすら疑問視されるようになっているのです。

漸進的な融合と「ピクト人の土地」のリブランディング

最新の研究はむしろ、ピクト人とスコット人の民族ないしは文化の融合が6・7世紀頃からより長期的にゆっくりと進んだものであったと考えるようになっています。

例えば、ゲール語の表記のためにアイルランドで考案された「オガム文字」を刻んだ石碑がピクト人の土地であったスコットランド東部で多数発見されていることがゲール語やそれを話す人々の移住を示している可能性があること。

アイオナ修道院長だった聖コロンバを始めとしたゲール系の聖人信仰や「ケーリー・デー (Céli Dé)」と呼ばれる修道院改革運動の影響とそれらに対する王権の庇護を通じて、ゲール文化がピクト人の土地に浸透していったと考えられること。

7世紀後半にダール・リアダ王国の支配集団の1つであった「ケネール・ゴウガル (Cenél Comgaill)」の王家とピクト人の王家との婚姻によってスコット人の系譜を持つピクト人の王が誕生し、その後より下級の支配者層においても両民族の婚姻が深化していったと考えられること。

ゲール語を話す聖職者がピクト人の王国の行政や法を司る集団の中核を構成し、彼らが提供する最先端の知識がピクト人の王の支配を正当化する上で重要な役割を担っていたこと。

前述のように、8世紀にはスコット人のダール・リアダ王国はピクト人の王の政治的な支配を受けるようになっていました。しかしそれは一方で、スコット人によるゲール語やその文化が徐々にピクト人の生活や文化に浸透していく双方向の流れを生み出したと考えられています。その過程の中でゲール化していったピクトの王国は9世紀の末頃に自己をリブランディングし、かつてピクト人の土地と呼ばれていた地域は「スコティア」と呼ばれるようになっていったのではないか。最新の研究はこのように主張しています。まさに、スコット人によるピクト人の征服とは逆の流れがこの転換の遠因にあったのではないかと考えられるようになったのです。

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