YuRAN-HIKO

アナリスト兼、日曜歴史家のブログ。ゲーム分析や歴史のトピックが中心。

VUCAな時代だからこそ大切にしたい人文学の素養

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安易な How to に走っていないか

現代を生きる私たちは、あまりに目先の How to の知識ばかりを求めすぎてはいないだろうか。インターネットで検索すれば、【○○の方法◇選】や【○○ができるようになるためのたった△個の方法】と題した記事が乱立している。書籍やWeb の講座では、パワポの資料作成術、ロジカル思考術、心を動かす文章術など、とにかくお手軽さを売りにして、How to の技術を売り込むコンテンツが人気を集めている。

とにかく、何をすればいいのかという「答え」や「テクニック」を安易に求めるようになっているのではないだろうか。私は決して、How to の技術自体を否定したいわけではなく、その技術を学ぼうとすること自体を批判したいわけでもない。当然ながら、初学者が即効性のある技術をまず身につけることは意味のあることだし、自分も調べ物をする際には、そういったツールをよく利用している。

私がここで述べたいのは、目先のHow to思考に惑わされるのではなく、時には立ち止まり、一歩引いた視点から自分や世の中のことについて考える機会を持つべきではないかということだ。

How to 思考と VUCA ワールド

2010年代に入って、VUCA ワールドという言葉が注目されるようになってきた*1。VUCA とは、端的に述べると「先行きが不透明で、将来の予測が困難な状態」だ。世の中の変化が大きく (Volatility)、先行きも不透明で (Uncertainty)、もろもろの要因が複雑に絡み合っており (Complexity)、曖昧ではっきりしない (Ambiguity)。VUCA とは、それらの頭文字を取って作られた単語だ。もともとは1990年代後半に軍事用語として発生した言葉だったが、2010年代に入ってビジネス界隈でも使われるようになってきている *2

グローバル化の進展や、環境問題といった地球レベルでの課題。インターネットなどの情報技術の急速な発展や、爆発的な情報量の増加*3。経済やビジネス、個人のキャリアに至るまで、将来が見通せない中、組織や個人がどのようにに立ち振る舞うべきかが問われている。組織の戦略に関して、従来のような綿密なプランニングを重視する重厚長大なものではなく、アジャイルな形が提唱されるようになってきたのも、こうした時代背景によるものだろう*4

例えば、我々は当たり前のようにスマートフォンを持っている。しかし、これは10年前には考えられないような出来事だった。深層学習に代表されるようなAI技術がここまで発展することを、10年前に見通せた人も多くはないだろう。YouTubeの視聴時間がテレビ各局を上回るようになり*5、そのYouTubeでさえも国によってはTiktokの後塵を拝している*6。これほど急激に世の中が変化することを、数年前に予測できた人がどれだけいただろうか。

私たちは、そのように複雑化した世の中で、何をするかという意思決定をしなければならない。しかし、人間の認知能力には限界があり、その複雑性をそのまま受け止められる人は決して多くはないだろう。そのうえ、現代人は常に時間に追われている。シンプルで即効性のある How to を求める人々の感情には、そのような時代背景があるのではないだろうか。

長期的なビジョンを持つことの重要性

VUCA な時代では、技術やトレンドの盛衰も非常に早く、その変化が急激に進展することが特徴だ。では、その中で、組織や個人に求められるものとは何だろうか。

確固たるビジョンやシナリオを持つこと。この点は複数の論者から指摘されている。その必要性は組織であっても*7、個人であっても当てはまる*8。つまり、世の中の変化が激しく先が見えないということは、常に目先のことばかり見ていればよいということを意味しない。事情はむしろ逆だと言える。常に現状を観察し、機動性高く方向修正を行うことは重要だが、変化が激しい時代だからこそ近視眼的になるのではなく、長期的な視野に立って自らが進むべき方向性をしっかりと見定める必要性がある。

それを踏まえた際、目先の How to な知識や付け焼刃の技術ばかりを追い求めることが、危険な行為であることは想像がつくだろう。もちろん、真剣に技術を学ぼうとする態度や志は素晴らしいものだ。問題は、バズワードに翻弄され、それをファッション的につまみ食いすることへの危険性である。そのようにして見せかけの「学び」を得た先に、何が残るかを改めて立ち止まって考えることが大切だと言える。

目先の How to に目を踊らされるのではなく、深呼吸をし、より俯瞰的な視点にたって考えてみてはどうだろうか。先行きが見えない世の中で、自分はいかに立ち振る舞うべきか。自分はいかに生きるべきか。そう自問してみてはどうだろうか。それはまさに、自分の思想や価値観を問うということだ。これらは、簡単に答えが得られる類のものではない。悩み続け、思考が堂々巡りすることもあるだろう。しかしながら、そうやって自分の価値観やビジョンに真摯に向き合うことが、まわりまわってVUCAワールドで生き残る近道になるのではないだろうか。

人文学の素養が価値観を養う

私は、価値観を養う上で、哲学・歴史・文学などの人文学の素養を身につけることが重要だと考えている。京都大学の出口康夫教授の言葉を借りれば、人文学は「人類が到達してきた様々な『座標軸』を提供して、その中から方向性を見出していく学問」だ*9。例えば、アンダー・コロナ、ポスト・コロナの時代において何を「正しい」「あるべき姿」とするのか。それを考える思考の枠組みや歩むべき方向性を探究するのが、人文学というものが担っている役割だ。

したがって、それは必ずしも即席で使えるような How to の技術を提供してくれるものではない。例えば、中世ヨーロッパにおいて人口の約30%が死亡したと言われる黒死病 (ペスト) について考えてみよう。黒死病に関する研究を読めば、その規模や社会に与えた影響、人々がそれをどう捉えていたのかということが分かる。検疫という制度が生まれたことや、鞭打ち苦行団という宗教行為が生まれたこともわかる。

よりマクロに、感染症というものが人類史に与えた影響を学ぶこともできるだろう。マクニールの『疫病と世界史』は、文明間の交流が同時に疫病の伝播ももたらしたことや、それによって免疫を獲得していない「受け手」側の社会が甚大な被害を受けたことを知ることができる。

ただし、それらの勉強をしたからと言って、今の新型コロナの対策にそのまま使えるような知識を得ることは難しいだろう。黒死病の時代、人々がそれにどのように対応したかを知ったとしても、直接的に明日を生きる技術を身につけることはできない。なぜならば、中世のヨーロッパと現代では、医療や公衆衛生のあり方、生活様式が全く異なるからだ。それが社会や人間心理に与えた影響も、平均して80歳まで生きられる現代の日本と、16歳までに2人に1人が亡くなるような世の中では、生や死に対する価値観が同じであるとは限らない。公衆衛生という概念が生まれてきたのは、近世になってからだ。

自分とは違う価値観を学ぶ

しかし、その価値観の違いこそが、むしろ私たちが学ぶべきことだ。人文学には、「いま・ここ」という常識や価値観から私たちを解放してくれる力がある。古今東西の様々な思想や人々の生きざまから学ぶべきは、そのような価値観の相対化だ。我々はどちらの方向に向かうべきなのか。なにを「正しいこと」や「善いこと」と考えるのか。それを問い直し、自らの価値観を発展させていくこと。それが人文学を学ぶ効用のひとつであると言えるのではないだろうか*10

古代中国の思想家、孔子の言に「学びて思わざれば即ちくらし、思いて学ばざれば即ちあやうし」という一節がある。これは、学んで、その学びを自分の考えに落とさなければ身につかないということと、自分で考えるだけで学ぼうとしない態度は危険であるということを述べた言葉だ。この言葉は、人文学の見地から言えば、彼が生きた紀元前の中国という文脈においてまず理解される必要があるだろう。

しかしながら、VUCAな現代において、この言葉が現代的なリアリティをもって私たちに突き付けられている。世の中が急激に変化し、確固たるビジョンを持つことが求められる時代。そのような混迷した時代においてこそ、人文学を学ぶ意義があると言えるだろう。

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