YuRAN-HIKO

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百年戦争とスコットランド⑦:重なり合う紛争ー③

1296年にイングランドに持ち運ばれたスクーンの運命の石 (Public Domain)
1296年にイングランドに持ち運ばれたスクーンの運命の石 (Public Domain)

ガスコーニュ遠征に対するスコットランドの反応

前節で述べた通り、一二九四年五月にパリ高等法院によってアキテーヌの没収が宣言されると、直ちにエドワード一世は議会を開き、遠征軍の準備を始めた。スコットランドのジョン王もそれに同意し、彼は準備を整えるために王国に戻って議会を開き、この問題について協議したと言われている。

しかし、議会の決定は真逆だった。イングランドへの軍事奉仕は否定された。ジョン王は「力と脅迫によって」エドワードに臣従を強制されたのであり、ジョン王はイングランド王に対して軍事奉仕をする義務を負ってはいない――これが議会の決定だった。つまり、イングランド王に家臣の義務を果たそうとする王に対して、王国の貴顕たちが反対の意思を表明したのだ。

さらに、この頃からスコットランドはローマ教皇庁に訴え出るようになり、年内にはイングランドに対する臣従誓約破棄の特赦を教皇から獲得する。ガスコーニュ遠征への参加要請をきっかけに、両王国の関係は一気に悪化していった。

スコットランド貴顕たちの反発

翌年の一二九五年五月には、延期に延期を重ねたマクダフの訴訟が再開する予定だった。しかし、結局のところジョン王はその法廷に出頭せず、訴訟はさらに延期が決定された。この訴訟は前年に開かれる予定だったものの、エドワード一世側の都合で延期されていたのだった。その時ジョン王はしかるべく出頭をしていたため、この一年間の両国の関係悪化により、一二九五年の段階ではジョン王に対して出頭しないよう圧力がかかっていたとも考えられる。

しかしながら、依然としてジョン王はエドワードの家臣としての立場に忠実であろうとするところがあったのだろう。一二九五年七月、スコットランド貴顕層は一二人からなる評議会を結成し、意を決めかねない王に代わって政治の主導権をとるようになった。同月には友好関係を築くためにイングランドから使節が派遣されたものの、彼らはそれを追い返してしまう。イングランドに対するスコットランド貴顕たちの反発は明白だった。

フランス=スコットランド同盟

そればかりか、その裏でスコットランド側はフランス王フィリップ四世に接近し、フランスとの同盟を模索し始めていた。交渉は一二九五年の三月から五月頃から始まり、最終的にその年の一〇月、フランス=ノルウェイ=スコットランドの間で相互不可侵をうたった軍事同盟が結ばれるに至る。合わせて、ジョン王の息子エドワード・ベイリオルと、フランス王の姪ジャンヌ・ド・ヴァロワの結婚も計画された。

当時のジョン王の立場を、ベイリオル家の研究者であるアマンダ・ビーム氏は「板挟みの状態」と評している。つまり、ジョン王は王国の貴顕たちの意向を汲んでイングランドに敵対するか、それとも彼らを制止してイングランド王への忠誠を継続するかの二択を迫られていた。

さらに実のところ、ジョン王はフランス北東部のバイユール、ダンピエール、エリクール、オルノワといった所領を保有する、フィリップ四世の家臣でもあった。どちらに味方しても何らかのダメージを受けることは明白であり、最悪の場合王位さえ失いかねないリスクを彼は負っていた。そのような状況の中、王は最終的にイングランドと袂を分かち、フランスに味方することを決定したのだった。

スコットランド遠征

議会出頭を度々ボイコットし、軍事奉仕も拒否しただけでなく、あろうことか敵であるフランスと同盟するという道を取ったジョン王の行動はエドワード王を大いに怒らせることとなった。一二九五年一〇月、エドワードはイングランド中の地方役人に対し、ジョン王と彼に味方するスコットランド人の土地の押収を命じている。そして一二月にはスコットランド遠征に向けた召集命令が出る。召集の期日は翌年の三月一日と定められた。

一二九六年三月、予定通りスコットランドに対する懲罰遠征が開始された。三月三〇日にイングランド軍は両国の境にあるベリック市を攻撃して陥落させ、多くの市民を殺害した。

かたやジョン王は四月の初頭、書面で公式に臣従誓約の破棄を行い、徹底抗戦の姿勢を見せる。四月末、イングランド軍はダンバー城を攻囲。伯夫人の救援要請によりスコットランド軍が駆けつけるも、彼らはワーレン伯率いるイングランド軍に大敗を喫して多くが捕虜となり、城はイングランド側の手に落ちた。

そのまま、エドワード王はジェームズ・ステュワートが守るロクスバラ城をほぼ無抵抗で降伏させた後、エディンバラ、スターリングの各城を降伏させていく。六月末にはエドワード軍はスコットランド中部のパースの町にまで到達した。

ジョン王の降伏

その年の七月、ついにジョン王はエドワード王に対して降伏を申し出る。七月二日付の書面で、彼は「悪しき愚かな助言と自身の単純さ」によってエドワードに反抗したことを謝罪し、スコットランドの土地と民の返還を申し出た。同月七日にはフランスとの同盟が破棄され、一〇日にはジョン・ベイリオルによる王国の放棄が正式に決定された。王はロンドン塔に連行され、そこで幽閉されることになった。

その後、翌月の八月末までに、スコットランド各地の司教、修道院長、聖職者、伯、地方領主、騎士、都市、市民が同様の降伏を受け入れていった。その文書には「前スコットランド王ジョン・ベイリオル」という表現が見える。彼は廃位された。スコットランドは王を頂点とする独立した政治体ではなく、ウェールズやアイルランド、アキテーヌなどと同様にエドワードの「帝国」の一構成要素となってしまった。

重なり合う戦争

ジョン王の廃位とスコットランド王国の独立の喪失に繋がるこの戦争の背景には、マクダフの訴訟に見られるような、エドワード一世の上級支配者としての振舞いと政治介入に対するスコットランド貴顕の反発があった。

一方で、この戦争の直接の引き金を引いたのはガスコーニュ遠征のための軍役の要請であり、スコットランドとフランスの同盟であった。その意味で、二つの戦争は重なり合うものになっていた。フランスはスコットランドとの関係において利己的な、しかも限定的な関りしか持つことはなかったが、戦争が北と南の二方面で展開されているという事態は、以後「国際情勢」に対して大きな影響を与えていくことになる。

一つの時代の終わりの始まり

一方で、このイングランドとスコットランドの戦争を、はっきりと分かれた二つのくにの民の間の争いとして解釈するのには、注意が必要だろう。かつての研究では、アレグザンダー三世の死後に形を表したスコットランドの「王国共同体」なるものの一体性が強調される傾向にあった。しかし、近年の研究はそのような共同体としての活動の限界と、王国内での派閥争いなどの分裂の側面を強調している。

戦争において、ロバート・ブルース、ダンバー伯パトリック、アンガス伯ギルバートといった貴顕たちは最初からエドワード側に味方した。ロクスバラを守っていたスコットランドの執事長ジェームズ・ステュワートも早々にエドワード一世に服従した。つまり、スコットランドの貴顕たちとは決して一枚岩の存在ではなかった。

『新エディンバラ・スコットランド史』のこの時期の通史を担当したマイケル・ブラウン氏は、この時期のスコットランド側の抵抗を王国の自由を守る動きとして評価しつつも、そのような行動は王国内部の対立関係によって十全には機能しなかったことを指摘している。マクダフの訴訟はその典型例だ。氏の言葉を借りれば、その対立はエドワード王が作ったものではなく、彼は「ただそれを利用した」だけに過ぎないのだ。

これらを忠誠心に欠けた一部の貴顕たちによる離反と捉えてはならない。この時期のスコットランドの貴顕たちの多くは、境界をまたいでイングランドにも所領を保有する者たちだった。彼らにとって、一二九六年の戦争はどちらの主君に反乱を起こすかという苦渋の決断であり、いずれに味方しても自分の所領を失う可能性は十分に考えられたのだ。

この戦争はイングランドとスコットランドという全く別の国の間の戦争というよりも、ひとつの緊密に結びついた政治社会における内戦でもあった。そして、その緊密に結びついた政治社会の終わりの始まりでもあった。

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