YuRAN-HIKO

アナリスト兼、日曜歴史家のブログ。ゲーム分析や歴史のトピックが中心。

学者の助言が王の意思決定に与えた影響 (新アッシリア帝国)

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組織のリーダーには、日々さまざまな意思決定が求められます。それは古代も現代も変わりません。

しかし、その意思決定をどういうプロセスで行うのか。誰がその意思決定に関わり、何をよりどころにしてその意思決定を行うか。これらは時代と地域によって異なりながらも、一方で共通点を見出すこともできます。

今回は古代の新アッシリア帝国における王の意思決定のお話です。

新アッシリア帝国

新アッシリア帝国とは、紀元前934年から紀元前609年まで中東の大部分を支配した国です。最盛期にはバビロニアやエジプトも征服し、さまざまな民集団を支配下におさめた一大帝国でした。

特にアッシュルバニパル王(在位:紀元前668年-紀元前631年)は有名です。彼が首都ニネヴェに建てた図書館は世界最古のもの。そこには、帝国各地からさまざまな文書や文学が集められました。その数は約3万点。まさに、広大な地域を支配した帝国の繁栄を物語っています。

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帝国における王のイメージ

その頂点に立つのは王でした。王はアッシリアの最高神であるアッシュル神の地上における代理人として、帝国を支配していました。公的な文書において、王は帝国の唯一の創造者であり維持者として表象されています。[Radner 2011]

そんな神聖味を帯びた王は、実際どのように意思決定を行っていたのでしょうか。

結論から先に述べると、王はおもに2グループの助言者に基づいて意思決定を行っていました。それが帝国の高官たちと、学識ある専門家たちです。[Radner 2011]

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今回はその中でも後者の「学識ある専門家たち」に焦点を当てることにしましょう。なぜなら、彼らがどのように王の意思決定に影響したかを見ていくことは、データに基づいた意思決定が課題視される今日の社会においても示唆深いものだからです。

王の宮廷と学者

地上における神の代理人として、アッシリアの王は神意に基づいて支配を行うものとされていました。そのため、さまざまな自然現象から神々のメッセージを読み取ってそれを政策に反映させ、儀式を通じて神々との関係を維持することは重要なことと考えられていました。そして、その役割を担ったのが学者と呼ばれる人々です。[Radner 2011]

エサルハドン王(在位:紀元前681年-紀元前669年)とその息子であるアッシュルバニパル王の書簡から、当時の王と学者の関係を知ることができます。

王の宮廷には占星術師、鳥占い師、供儀の専門家、祓魔師、医師などのさまざまな分野の専門家が存在しました。彼らはそれぞれの教義で叡智や儀礼を発展させ、その技法を継承し、神意を解釈し王に対して助言を行ったのです。[Radner 2011]

学者は最初「見習い」として下積みを行った後、同僚とともにチームで活動していたと考えられています。また同様に流派間での競争も存在し、特に占星術などは各々の解釈を闘わせて議論を行っていたこともわかっています。[Radner 2011] [Robson 2011]

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さまざまな民集団を支配したアッシリアでは、エジプトの学者やアナトリアの学者、メソポタミアの学者などさまざまな地域・流派の専門家が宮廷に集い、国際色豊かな文化が形成されました。他国との間で高名な学者の交換も行われており、王は多種多様な教義の専門家が下す助言に耳を傾け、意思決定を行っていたのです。[Radner2009]

王と学者。両者を結び付けていたのは現代の歴史家が「パトロネジ」と呼ぶ恩顧関係でした。

パトロネジとはつまり、社会的に優位にある王がパトロンとして、より下位に属する学者を私的に召し抱えるといった関係です。学者が有益な助言を提供する代わりに、王がその生活を保護する。両者の関係はそのような非公式の相互扶助に基づいて成り立っていました。学者の数は多く、例えば紀元前670年には、首都ニネヴェだけで45人の専門家が所属していたと考えられています。[Radner 2011]

最先端の叡智を活用した意思決定プロセス

占星術師や祓魔師の助言に基づいて意思決定を行っていたとなると、なにやら怪しい雰囲気を感じる人もいるかもしれません。実際、歴史研究においても古くはそのようなネガティブな解釈がなされることもありました。[Olmstead 1923]

しかし、近年の研究ではそのような解釈は払しょくされ、彼らは当時における「アカデミックな」専門家であったとされています。近代的な科学というものがまだ存在しない時代。このような学者たちが行う儀礼やその結果の解釈は当時の最先端の叡智であり、それを野蛮なものとして捉えるのは、時代錯誤に他なりません。

たとえば、鳥占い師は神への問い対して、野鳥の行動を解釈し、さまざまな場所や時間で観測された結果を総合しながら、是か(鳥がそれを承認した)、非か(鳥がそれを否定した)を判断していました。また、供儀の専門家は同じ問いに対して、犠牲にささげた羊の肝臓をもとに是か非かの判断を下していました。[Radner 2009] [Radner 2011]

王は同じ問いに対して複数の流派から意見を求めることで、各流派のクオリティ・コントロールを行っていたのです。今風で言うと、さまざまな学問分野の専門家を集めて議論をするといったものに近いかもしれません。もしくは、複数の予測手法を並べて解釈するといったものでしょうか。 [Radner 2011]

助言をなす者の使命と示唆

センナケリブ王(在位:紀元前705年-紀元前681年)による紀元前701年の軍事遠征の様子を描いた図像のなかには、玉座の王とその近臣、非武装状態の人々を率いる兵士と並んで、子羊を屠る人物が描かれているものがあります。軍事遠征の場面で子羊を屠る人々。彼らはいったい何を描いたものなのでしょうか。

それは、先に述べた供儀の様子と考えられています。当時の軍事遠征には占い師たる学者も同行し、軍の戦略や疫病発生の予測などを話し合う際の議論の出発点として、専門家の助言が活用されていたと考えられています。[Radner 2009] [Radner 2011]

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また、学者たちは解釈の結果を述べるだけでなく、それを踏まえた具体的な行動の提示まで行っていました。例えば、エサルハドン王に仕えていたあるバビロニアの占星術師は、星辰の予兆とその解釈をもとに、ただそのメッセージを伝えるだけでなく、帝国の東に位置したマンネア人との戦争に関する具体的な戦略の提言を行っています。[Parpola 1993: nos. 111-2]

もし王が彼の軍に「マンネアを侵攻せよ」と書き命じたとしても、全軍が侵攻すべきではない。騎馬隊と専門部隊のみが侵攻すべきだ。[Parpola 1993: no. 111]

ラドナー博士は、その占星術師が神のメッセージをもとに現状の課題と予見される困難を分析することで、たとえそれが人間による観察と解釈という二重のフィルターを通したアンビバレントなものであったとしても、意思決定プロセスにおける強力なツールを提供していただろうと述べています。[Radner 2011]

そして中には、受動的に情報を提供するという役割の範疇をこえて、政治の意思決定により絡んでいく学者も見られるようになります。エサルハドン王やアッシュルバニパル王の時代は、従来の高官に代わって学者の影響力が向上した時代。意思決定に資するツールを駆使することで、彼らは大帝国の行政に大きな影響を与えたのです。[Radner 2011]

レファレンス

[Olmstead 1923] History of Assyria | The Oriental Institute of the University of Chicago

[Parpola 1993] in http://oracc.museum.upenn.edu/saao/corpus

[Radner 2009] [PDF] THE ASSYRIAN KING AND HIS SCHOLARS: THE SYRO-ANATOLIAN AND THE EGYPTIAN SCHOOLS | Semantic Scholar

[Radner 2011] in The Oxford Handbook of Cuneiform Culture (Oxford Handbooks)

[Robson 2011] Empirical Scholarship in the Neo-Assyrian Court | Cuneiform Commentaries Project