【ヨーロッパの成立】東欧カトリック諸国の誕生 10-11世紀

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古代ローマの遺産、キリスト教(ローマ・カトリック)、ゲルマンの精神。この3つがヨーロッパ(より正確にはラテン・ヨーロッパ)の根幹だと言われています。中世初期(5-11世紀)は、その3つが融合してヨーロッパの核が誕生した時代です。ヨーロッパの誕生と言うときは、その現象を指すことが一般的かと思います。

しかしながら別の記事でもお伝えしたように、中世初期のヨーロッパはいまよりもずっと狭いものでした。当時のヨーロッパは旧フランク王国、ブリテン諸島、イベリア半島の北端に限られていたのです。東や北には異教の地が広がっていましたし、地中海にはイスラームやビザンツの勢力が支配していました。ヨーロッパは北のヴァイキング、南のイスラーム、東のマジャール人という3方向からの侵略に対して、守勢に立たされていたのです。

ですが11世紀以降、ヨーロッパは拡大基調に転じます。まず明確なのは、ローマ・カトリックを信じる地域が広がったことです。それは新しい司教区の創設というかたちで現れました。ローマ・カトリックは大司教区・司教区・小教区という、かっちりとした階層構造になっています。新規の司教区が作られるということは、その司教を中心に布教した地域をまとめ上げ、管理しようという意図の現れです。その範囲が広がることは、ローマ・カトリックの影響範囲の拡大と言えます。

今回はその拡大が始まった時期に、ヨーロッパの東がどう変化していったのかを見ていくことにしましょう。

東ヨーロッパへのキリスト教の拡大(10-11世紀)

936年、カール大帝ゆかりの地アーヘンで、オットー1世が選挙をへて東フランクの王に即位しました。彼は後にローマ皇帝としても即位し、後世オットー大帝とも呼ばれる歴史上の偉人です。

オットー1世(Public Domain)

ヨーロッパ東部に対する拡大は、このオットー1世の時代から進められていきます。それは、東方で軍事的優位を築くという政策と、ローマ・カトリックの伝道がミックスされたものでした。彼は東方への玄関口にあたるエルベ川流域に辺境区を設置し、防衛を強化。信任の厚い有力貴族を辺境伯に任じて支配をゆだねるとともに、入植を推進していきました。

王はまた、征服したスラブ人の土地や、北のデンマークに対するローマ・カトリックの伝道を進めていきます。940年代にデンマークでの伝道活動は3つの司教区の設立に繋がり、それらはハンブルク=ブレーメン大司教の管轄下に置かれました。エルベ川流域ではブランデンブルクハーフェルベルクが、ポーランドにはポズナニ司教区が、ボヘミアにはプラハ司教区が次々と作られていきます。プラハは当時ボヘミアの大公の拠点でしたが、その司教座はマインツ大司教の管轄下に置かれました。

こうしたスラブ地域のキリスト教化を担ったのが、王が治世初期に設立したマクデブルクの聖マウリティウス修道院です。オットーはこれを東方布教の中心地とすべく、968年にはマクデブルク大司教座へと昇格させました。この昇格には一部の大司教や司教が猛烈に反発したと伝えられていますが、王は教皇の指示を得てその反発を押し切り、自らの政策を推進していったのです。

東方への布教は彼の孫であり、熱烈な宗教心をもったオットー3世の時代にさらに進められていきます。1000年にはポーランドにグニェズノ大司教座、1001年にはハンガリーで最初となるエステルゴム大司教座が設置されました。

オットー3世(Public Domain)

グニェズノ大司教座の設立には前述のマクデブルク大司教が反発したと伝えられています。しかし、オットー3世はその反発を押し切って大司教座を設立します。ポーランドを正式にキリスト教国家として承認することで、それを帝国の構成国の1つに組み込もうとしていたと考えられています。しかしこの若き皇帝の夢は実現しませんでした。彼の死後1025年にポーランドは皇帝の権力から完全に独立することになります。

一方、ハンガリーは、前世紀ではしばしばヨーロッパに進出をはかったマジャール人の王国だったというのがポイントです。彼らは955年のレヒフェルトの戦いでオットー1世に敗れたのち、半世紀たって逆のベクトルからヨーロッパに包含されていくことになるのです。ハンガリーもポーランドと同様、完全に帝国の傘下に組み込まれていったわけではありません。しかし、ヨーロッパの東部にキリスト教の王国が生まれることは、その後のヨーロッパの歴史にとって大きな意味を持つことになるのです。

こうして、ポーランド人、ボヘミア人、マジャール人は東フランク王国とローマ・カトリックを文化的・宗教的なモデルとするようになります。異教徒による暴力的な反応も11世紀には残りましたが、次第にかの地ではローマ・カトリックが優勢になっていきました。

14世紀までマインツ大司教の管轄下にあったボヘミアのプラハと、早々に大司教座が設立されたポーランド、ハンガリーといったように、西の皇帝権からの独立性に差は見られます。しかしながら、いずれもローマ・カトリックを受容したことで、これらの地域はヨーロッパに組み込まれていったのです。

おわりに

当時、さらに東にはビザンツ帝国が存在し、首都コンスタンティノープルはギリシア正教の総本山として君臨していました。東ヨーロッパでのキリスト教の浸透は、 当時の国際関係と切っても切り離せません。なぜならば、それはカトリックを選ぶかギリシア正教を選ぶか、フランクの王国側につくかビザンツの側につくかという政治的な問題とも深く結びついていたためです。特にハンガリーでは王がローマ・カトリックを受容したことには、東方と結びついた国内の有力者を打破する目的もあったと言われています。

今日でも、スラブ世界の文化が西と東で大きく分かれるのは、この時代以降にどちらの文化を受容したのかに大きくかかわっています。1054年には東西教会の分裂が決定的になり、その溝はますます深くなります。中世中期に始まったヨーロッパの拡大は、東欧からみれば地域を二分するような文化圏の線引きがなされていった時代とも言えるのです。

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